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ヤキモキ道中

コラム『あまのじゃく』1963/10/16 発行
文化新聞 No. 4593
 


私の余計な助言?であわや衝突‼ 

    主幹 吉 田 金 八 

 隣に寝ていたせがれが「まだ、まるっきり早いぜ」と寝ぼけ声で言うほど早いのに起きて、ちゃぶ台を寝床に引き寄せてこの原稿を書く。
 昨日の『あまのじゃく』は、三条から白根を経て、ここに着くまでの信濃川の堤上の長い砂利道で浴びたホコリを洗い流して、女中さんが運んでくれた夕食の膳が並べられた食前の上で、酒を飲んだり魚を突きながら、しかも駅に持っていく時間を気にしながら書いたので、 容易ではなかった。
 しかも本社は、長谷川記者が入院し私が旅行とあっては、水村君が一人でてんてこ舞いをしていることが判るから、たとえ埋め草でも文字数を書いて送らねばならない。
 昨日は沼田駅前の優しいおばあさんの宿で、前夜あまり早く寝すぎたことと、硬い布団が一枚切りか掛けられなかったせいもあって、二、三時頃に目が覚めてしまったが、この間に原稿を書けば良いと思いながらも、床の中ではまだ打ち身が思わしくなく、さりとて起き出すには寒いし、思わしい机もないままに体を縮めて朝を迎えたが、今夜の新潟の宿は二枚かけた布団を一剥ぐほどの暖かさで、「新潟では六百円、八百円という訳には行くまいが、手頃な宿を紹介してください」と知人に頼んだ宿だが、白山通りのこじんまりした、温泉宿ほどの立派ではないが気の利いた宿で、「これでは千円では泊まれまい」と思うほどであった。
 電車通りには駐車出来ないので、車は近い白山駅構内に黙って預けてきたが、新潟駅に原稿を出しに行くのに、せがれが取りに行って宿の前に横付けたら、女中さんが「埼玉から自動車でおいででしたか」と驚き顔で取り次ぐほどで、私の方では軒並みに持っている自動車も、この新潟では商店以外少ないようである。
 街を走っているのは新潟交通のバスとタクシー、トラックが多く、自家用車は割と少ない。
 これは天然ガスで全市10円(最近15円になったとか聞く)で1系統なら30分乗っても1区の料金で済むバスの安いせいと、冬の降雪期が長い関係であると私は見ている。
 しかし、雪が降っても市街で自動車が走れないことはほとんどなく、近い将来は降る雪をどんどん溶かす装置を何百億もかけて主要都市にするとの報道がつい何日か前の新聞に出ていた。
 しかし、どこへ行くにも自動車で鼻がつかえた私たちには、自動車の数の少ないところに来て故郷に帰ったような気易さを覚える。
 昨日長岡から三条までの高速道路みたいな2、30キロの道、三条から新潟までの堤防下の砂利道、これにはすっかり埃をかぶったが、時間にすれば1時間足らず、こんな道が東京まで続いた。せがれの言い草ではないが、「 東京~新潟間は3時間も夢ではない」であろう。
 途中の道路整備は河野建設大臣の言い草ではないが、確かに進行している。未改良のとこは猿ヶ京から三国峠下までの間と、峠を越えて湯沢までの間だが、これもすでに完成したかに見える新道や赤い鉄橋が旧道の下に覗いて2年経てば確かに楽になる。
 半年前、工事中で苦労した道も、その次は見違えるような道やトンネルに変わっているというのが三国峠国道の移り変わりである。
 それと『三国峠の紅葉』は拾い物であった。
 自動車の左手に見える下越の山々は登るに従って紅葉が増し、特に濃いビロードのような紅が、浅い紅葉の間に散りばめられた姿、さらにその下には白雪を戴いた遠い山々があって、誠に野郎ばかりで見捨てるのはもったいない景色である。
 だから、私は用件のある旅でも女性を誘うのだが、今回は、女房からは仕事が大事だからと剣もホロロに断わられ、試験休みの次女を引き出そうとしたが、これも見栄を構わない親父と同行するのは嫌いらしく「行きたくない」という始末で、日曜日の自分の予定を棒に振って初めは不機嫌だったが、「死なば諸共なのだから不愉快な気持ちで行くのなら危ないからよせ」と一喝くって、どうやら往生した長男を相手ということになった訳だが、これも運転中、なかなか親父と意見が合わない。
 この長男は本来が臆病なので、追い抜きはカラ下手で、滅多にやらないので小言は言えないが、対向車両のないとこではむやみとスピードを出す。それが若い者にすれば普通の速力かもしれないのだが、ボロ車しかやらない私にはどうも速や過ぎてならない。
 これでどこぞの車に故障ができたらイチコロである。せがれの運転は車の機能に頼りすぎた運転であるが、私のはどんなに所でどんな突発的故障、例えばバンクするとか、ホイールが吹っ飛ぶとか、そんなことが長い運転経験の中には何度かあった。そんな場合にもいつでも対処できる心構えでハンドルを持っている。
 どんな信用のある整備工場で整備した車でも、大事なところの割りピンが小僧さんの注意で乗り出して先が曲げてなく、わずかで抜けたこともある。 
 石が飛んだり、岩道でハラを擦ってブレーキのロッドや、オイルブレーキのパイプが損傷しない限りはない。
 私はいつどこで、例えば一歩誤れば千尋の崖上の道路でそんな不測の事態が起こってもよい心構えで、速力や車の位置を加減する。
 倅の運転は私の見るところでは、そんな配慮は全然ない。「3万円で買った車では自信がない」と言いながら、あたかも新車に乗ったような信頼ぶりであるように私には思える。
 女房が心配してつけて寄越したせがれせいで、全く私は自分で運転するより気骨が折れる。
 だから途中時折意見が衝突する。 私はもっと前の車との間隔を置けというのに、追い抜けないのにいっぱいにツメていく。
 「あまりガケ端に寄るな」とは再三。
これは、こっちが失敗だったのだが、先行する車が右に寄ったので「ここで抜いてしまえ」と命令したら、道路工事で片側通行になっていて、 私には見えなかったが、先行する車は対向に来た車を避けたために右側に寄ったので、こちらが抜けば向こうから来た車にぶつかってしまった。
 これには親父もギャフンとなって、以来、「脇からの口出しには運転は任せて余計なことは言わないでくれ」というせがれに任せることになったが、「女房のやつ余計な心配をしやがって、とんでもない運転手をつけてくれた」とめったに昼酒を飲まない習慣の私が、小池町で昼を食う時、ビールを1本飲んで、初めて運転台でうつらうつらとした。そうでもなければ終始脇でヤキモキしていたのでは、自分でハンドルを持った方がよほど疲れない。
 それでも「この車は案外しっかりしているな。悪い道ではガタガタしてスピードが出せないが、この調子ならまだ相当乗れるよ」とはせがれの言葉であった。
 途中クギを踏んだと見えて、新潟駅に原稿を出しに行き、倅のために新潟の夜の町を歩こうと市役所の前に駐車した時、後輪の空気が半分ほど抜けていた。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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