大根畑は花ざかり
コラム『あまのじゃく』1963/10/23 発行
文化新聞 No. 4599
大根、さつま、ウリ‥‥の満艦飾
主幹 吉 田 金 八
解散が本決まりとなったとなると、選挙民は他人事のように思っていた候補者について、多少は切実に考え出してくる。
すでに1年も前から、天から降ったか地から湧いたかの如く何人かの候補者が現れて、いみじくも哀しき事前運動を展開して、すでに上層の網の目は曲がりなりにも整った観がある。
そのいずれもが『腹は借り物』式の腰掛け式、踏み台式の輸入候補であることに、地元民はしっくりしない感を抱かざるを得ないようである。
輸入候補であっても、いずれは狭い日本のどこかの産で、土地っ子と言っても現在の日本はいずれは他県との交配であることからして、土地っ子ではない、よそものだとの毛嫌いは、古い封建的思想と言ってしまえばそれまでだが、埼玉二区はボンクラ揃いで、とても代議士になる器量のある人間はいないのだと見下されることはいささか残念である。
それもこの地盤を狙ってやってくる人が衆に優れた偉ら者であって、自ら頭の下がるほどの人材ならともかく、どうも見渡したところそれほどの者でもなさそうである。
舞台衣装と背景でどうやら威儀を正しているから見られるようなものの、お供や応援の並び大名を取り去って見れば、「いずれも同じ大根役者」だという批判も聞かれ、「あんな大根に太刀打ち出来る大根がいないとは情けない」との熊さん八さんの悲憤も誠に頷ける。
〇 〇
ともあれ、予想されるところでは、今度の選挙の二区はまこと大豊作の秋の景色そのもので、大根、さつま、ウリ、なすびの満艦飾で、空前の大混雑ではないかと見られている。
これはまたとない好機で、元来がお人好しで一列乗車しか出来ない人間でも、なんとかすれば乗り込めなくはない状況になることは必至とみられる。
ただ、本当に勝とうとするにはすでに手遅れかも知れないが、今回は捨て石、期するはこの次とか、この次には自分で無しにも、この地方を他人の草刈り場にさせまい、誰ぞ後に続くものにバトンタッチさせたいという意味での、犠牲打者の出現を望む声は多いようである。
そんな位だから、何も無駄銭を使う必要はない。また使わせてはならない。こんな意味の軽い立候補者が待たれていることは確かである。
市川さんは欲の深い県会議員にいびられて、議長を最後に政界を諦めたようだが、この心境には理解、同情する向きもある。こんな機会に代議士に飛躍して、この連中を見返すのも良いではないか。
『あの人柄では国会議員にはハッタリが無さ過ぎて心もとない』との評も頷けなくはないが、見るところ予想される候補者の顔ぶれも市川さんとドッコイドッコイで、故人となった山口六郎次氏ほどの面魂ほどのものがありとは見えない。
もっと勇気を持って大根畑に躍り出ても良いのではないか。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】
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