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こたつスキー

コラム『あまのじゃく』1952/2/8 発行 
文化新聞  No. 231


雪国の酒と人情に惹かれて

    主幹 吉 田 金 八

 私は中年になってスキーを習った。習ったと言っても平常から運動神経の鈍い方なので、すでに年数では相当長い方だが、いつまでゲレンデスキーの域を出ない。
 基本技術は霧ヶ峰のグライダー小屋に一週間以上も寝泊まりして、長野県主催のスキー講習会でオリンピックに出たという一流選手の手ほどきを受けたのだから、回転の理論やワックスの使用法も一応は心得ている筈だが、体が言うことを利かないし、練習場では蝋【ロウソク)専門で間に合うからワックスなどの事もすっかり返上してしまった。
 スキーは金の要らない道楽で、今年は子供二人とも、それぞれ別な団体で行ってきたが、長男の方は湯沢の手前あたりの湯のないスキー場へ行ったらしい。一泊二食付きで2百円宛てだったとのこと。特に飯能の山岳会はそのスキー場開設以来のお客だそうで、駅を降りると「飯能の方ならば〇〇屋さんです」、と駅員が知っているほどで、分村飯能とは関係なしに、顔がきくという話であった。
 私は旅に出ても土産を買わない主義だが、長男は「お父さんが好きだから」と思って「やまいも」を褒められるつもりで買ってきたが、これが案外の食わせ物で、上州あたりから行った『里いも』らしく、家内に冷やかされて頬を膨らませていた。
 次男の方は学校の団体で行ったが、1年生にしては私の指導よろしく出来ており、さらに越後の名山・米山の中腹の村に親類があって、二冬ばかり山腹の険しいスロープや道路を現地の子供たちと、越後訛りを覚えるほどにやってきているから相当こなせる。だが、「吉田君のは自己流だ」と先生や指導の大学生に天狗の鼻を折られたと報告している。一緒に行った入間川のお医者の子供が転倒骨折して、長野の日赤に入院して、未だに学校へ出られないとあって、
 「これから一年生は連れていかれない」ことになったとあって、今年は学年休みに行けないとこぼしている。
 私が、スキーが好きだと言うのは、信州の温泉場が僕の如き贅沢の嫌いな人間に性があっているためで、スキーそのものはそれほど好きでは無いのかもしれない。
 温泉といえば私の住んでいるこの土地の人たちは、熱海や伊東を連想し、平常ケチケチして貯めた金を、一夜大名で湯水のように使って(あるいはフンダクられて)くることが何よりの遊山と心得ているらしい。
 青年時代は禁酒運動の旗持ちをしたことがあったが、この頃の私は日本酒では利かない酒飲みになってしまった。
 と言ってどんな酒でも良いので、もっぱら焼酎を愛用しているが、これは酔うために飲むので、焼酎は決して美味いものではない。
 信州の酒は別してうまいと思わないが、越後の酒はうまいと思う。それでいて新潟市あたりでは関西の酒が良いとされ珍重されているらしいが、私は越後の酒で上等である。
 湯沢へ行ってスキー場で懇意になった親父の家に泊まって、湯沢の駅から煙突の見える『志ら滝』を一升買わせ、兎の肉鍋か何かでコタツでチビリチビリやるのは、ちょっと洒落たものである。
 終戦後、越後の親類から『亀乃里』という一級酒を四斗樽一本送られて一万円近いので手をつけるのが恐ろしく、そのままどこか料理屋へ売ろうとしたが、現金で直ぐ買い手もなく、結局手をつけてしまったが、この酒なども美味い酒で、終わりの頃には秩父から一升瓶を四,五本持って買いに来たほどである。
 こういった酒が安く飲めるから、スキー行の魅力があるのかもしれない。だから私の場合はスキー場に行くよりむしろ子供たちのお守り役で、宿屋でお酒を飲んでいる方が多い。
 私の街から便の良いスキー場と言えば、結局上越と言うことになり、水上では夜行で行くと早く着きすぎるから、清水トンネルを超えた湯沢と言うことになろう。
 八高線を最終列車に乗って、高崎で二,三時間油を売り、十二時前後の上越線に乗れば、五時ごろには湯沢に着く。早すぎれば宿屋に行かずに、村営の温泉場に行って、番人に百円もやって部屋を借り、衣類や靴を預けて、ゆっくり村人たちと朝湯を楽しむ。湯銭は確か一人五円か一〇円位のものであった。それから一日中滑ったり転んだりして、午後2時半位までの列車に乗ればその夜の家には帰宅できる。
 本当にスキーに乗るには靴とか一揃いの道具が必要だが、ただスキーの味と雪見酒を楽しむのだったら、ゴム長でも兵隊靴でも現地の貸しスキーで充分である。
 観光バスの暇なとこで、バスのいけるスキー場へズブの素人の『スキーで転ぶ会』などをと計画してみたいと思うが賛成者はあるだろうか。
 バスで行ける所といえば草津あたりであろうが、上越と違って寒気が厳しい代わりには雪質は上等で、スキーの底に雪がひっつくような事は絶対にない。私が信州の温泉を愛するのは山国の人々の素朴さを好ましく思うからである。
 終戦直後に子供を連れて八ヶ岳山麓の蓼科温泉に行ったことがある。
 中央線の茅野駅で降りて、4、5里バスで行き、その後は2,3里歩かねばならなかった。(今ではもちろん目的地までバスは通じている)
 ホトトギスの声を聞きながら新緑の山を登って避暑地で有名な高原の温泉場に着いた。途中驟雨にあってビショ濡れで宿に飛び込んだ。
 戦時中海軍の療養所にさせられて、接収を解かれたばかりで、庭には50メートルの温泉プールがある大きな宿家であったが、何十もある部屋はガランとしており、お客は私ども3人だけであった。ぬるい温泉なのでいっぺん沸かし返すらしいが、「宿の家族用ので良い」というのを、わざわざ私たちのために客用の大きな風呂を温めてくれて歓待を受けた。
 初夏だと言うのに、宿の老人がこたつに温まっている風景は珍しかった。
 下界の物価は高いと言うのに、その宿ではまだ物価を知らぬげの宿銭の安さに驚いて、200円ほど余計にやったのに恐縮して、お土産にお茶を100匁ほど出されたが、「お茶は僕の方が本場ですから、」と辞退したら、女中が二丁も追いかけてきて、山でとれたワラビやゼンマイの乾燥したのを届けてくれたのは、いまだに忘れられない好ましい旅の印象である。
 あの時は夏に早すぎて寒かったから、今度は盛夏の後に行こうと子供達と話し合ったが、避暑をする身分でもなく、時間もないままにそれっきりになっている。家族連れでもう一度行ってみたい土地である。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

 

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