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26. 虫のしらせ。

新しい年が明けた。

私と坂口君も新しい関係になった。

今はもう、とっくに研修君じゃなくて、同じフロアにいるけど違う仕事をしていた。

私がコピー機を使ってるとさりげなく近づいてくる彼。

書類の間に挟まれた付箋紙。

時間を合わせて、階段室に。

たぶん、今のようにLINEや、SNSがあれば、もっと簡単にもっとすぐに深い関係になれただろう。

でも、まだ、ようやく携帯電話が普及しだした頃のこと。

会社の人に怪しまれたらいけない。

ふたりだけに分かる視線。

ふたりだけの合図。

付箋紙のやりとり。


それだけで、ドキドキしたし、幸せだった。


でも、デートはできない。

食事にも行けない。

そうだ!他の人も誘えばいいんだ。


同じフロアのメンバーと男女5人で遊園地に行った。

他の人も誘って、カラオケ行った。

坂口君の同期の女の子と3人でレストランに行った。そのレストランはとてもお洒落なロマンチックなお店で、どうしても私を連れていきたいって言ってた。
その同期の女の子は、坂口君のことが好きみたい。でも、坂口君が私に憧れてることも知っている。この複雑な3人で、その後も食事に行ったり飲みに行ったりした。

夫には、その女の子と仲良しだからと話してた。

完全にカモフラージュ要員だった。


今思えば、彼女は、私のことどう思っていたんだろうな…


知れば知るほど、どんどん彼に惹かれていった。

育ちのいい坂口君。
大事な一人息子で、でも身体が弱くて、だからこそ、純粋培養されたような人。
その彼といたら、私までも無垢でキレイになれる気がした。

でも、そんな彼だからこそ、それ以上に踏み出すことができずにいた。
もし、私から仕掛ければ、変化したかもしれない。
でも、なんか、そんなことを彼とはしてはいけない気がしてた。


こっそり、手を繋ぐ。それが精一杯。

今までの自分が嘘みたいだ。

すっかり、私は、酔いしれていた。





『坂口君のこと、どう思う?』

唐突に、主任にそう切り出され、びっくりした。ふたりでランチに出てた時のことだ。

『あの子って、所詮、腰掛けやん。そもそも、コネで入ってきたわけだし。でも、若い女子社員には、人気よねぇ。つかまえたら、いわゆる、玉の輿やもんね。』

「そうですよねぇ。すごい家に住んでますしね。」

私は、主任が何を言いたいのか、つかめなくて、慎重に話を合わせいた。

『でも、ああいう家って、結婚となったら、絶対大変やと思うわ。ましてや、一人息子やしね。お母さんとかめちゃうるさそう。』

『というか、相手選びには、絶対、親が出てくるよね。相手もそれなりのお家じゃないと。で、坂口君のことやから、親同士が決めた相手と結婚しそうじゃない? で、本当に愛してるのは君なんだとか言って、外に女作ってそう。』

「主任、変なドラマの見すぎですよ。」と私は笑った。

本当は、全く笑えないけど。

外に女って…それ、以前の私…。

胸の奥がチクリと傷んだ。

『ところで、最近、あこちゃん、旦那さんの愚痴減ったよねぇ。大丈夫?』

「え?そうですか?
って、それっていいことじゃないですか。
なんで、大丈夫? なんですか?」

笑って聞き返した。

『あのね、散々、愚痴言ってる時って、大抵、大丈夫なの。逆に、今まで言ってた人が、急に何も言わなくなる方が危ない。』

「そうなんですか。
でも、うちは、大丈夫ですよ。」

また、私は笑った。

『離婚するするって言ってる人って、離婚しないでしょ?ホントに離婚するときは、成立するまで黙ってるもんなのよ。ホントに大丈夫?』

「だから、大丈夫ですって。」

ヘラヘラするしかない私。

『あのさ、本当に心底嫌いにならない限り、もう一緒の空間で息したくない!って位、視界に入るだけで吐き気がするって位嫌いにならない限り、離婚したら後悔するよ。

絶対に後悔するから。』

「……わかりました。」

さすがに、笑えなくなった。




『一緒の空気も吸いたくないほどの嫌悪感』

この時の主任の言葉は、なぜか、私の中にしっかりと、刻みこまれた。

後に、何度もこの言葉を引っ張り出してくることになるとは、この時の私は、まだ想像すらしてなかったけど。



やっぱ、近い人には、バレバレかぁ…。
もっと慎重にしなきゃ。

と思いつつ、やっぱり、未来のない恋が、悲しくなった。



私は、個人で携帯電話は、まだ持っていなかった。
お互いの家の電話も知っていたが、彼も実家暮らしだし、私に至っては、夫だけでなく夫の両親とも同居してる。
だから、知ってるだけで、実際にかけたことはなかった。

なのにその夜、なぜか彼は電話をかけてきたのだ。

確か、22時頃。

しかも、タイミング悪く、私は入浴中だった。湯船に浸かってる時に、お義母さんに外から声をかけられた。

『あこちゃん、ごめん、電話だけど。なんか、急用だって。会社の人。』

浴室の扉を少し開けて、子機を渡してくれた。

「あ、すみません。」

誰だろう?
タオルで手をふいて、それを受け取った。

『ごめん、あこさん。僕です。』

「どないしたん?急に。」

坂口君だった。

『ごめんなさい。でも、どうしても、あこさんの声が聞きたくて。』

「何かあったん?」

『いや、何もないですよ。ただ、声が聞きたくなっただけです。』

彼の口調が、少しおかしかった。

「わかった。酔っぱらってるでしょ?」

『バレました?でも、酔ってないですよ。』

そう言って笑ってる。

『今の旦那さんのお母さんですよね。すみません。』

「そう。実は今、お風呂入ってるねん。タイミング悪すぎ。」

『え?今、お風呂なんですか?
 え?じゃあ、裸なんですか?
 やばい、ドキドキしてきた!』

わざとお湯を、パチャパチャいわせて、

「ほらね。」と笑った。

その後もたいして中身のない話が、続いたが、あくまでもこれは、子機。
親機は、義両親のリビングにある。
長く話してると怪しまれるので、その事を彼に告げて、電話を切った。


すっごくドキドキした。

電話をかけてきてくれたこと。

ドキドキしてるって言われたこと。

お義母さんが怪訝な顔で取り次いでくれたこと。

とにかく、色んなドキドキと、お風呂に浸かりすぎで、顔は真っ赤になり、頭がボーっとしていた。


だから、なんで、この夜、彼が電話してきたのかなんて、全く、気にもかけなかった。


ふわふわ浮かれた興奮で、その夜は、なかなか寝付けなかった。


















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