言の葉ノ架け橋【第1話】
第1話 かけはし
まだ夏は遠いけど、紫外線の強くなる季節。
首元に日焼け止めクリームを丹念に塗り込んでいると、「希生先生、希生先生」と庭から優しい声で呼ばれて慌てて振り返った。
「ヨウちゃん、そんなところにいたの。びっくりさせないで」
「希生先生、いそがんと学校に遅れるよぉー」
私はふぅと息を吐き、手の甲にもクリームをたっぷり塗り込んだ。
「サチ祖母ちゃんの声マネするのいい加減やめて欲しいわ。ほんと焦る」
同居していた祖母が急逝してから一年以上経つ。それなのに、あの語尾の温かい喋り方を耳にすると懐かしさがこみ上げて私の時間が止まってしまう。
大学を卒業し、晴れて小学校教諭として採用されたとき、「希生先生」と呼んで一番喜んでくれたのはサチ祖母ちゃんだった。
希生先生に教わる子供は幸せだねぇ。
希生先生はみんなの人気者だろぉ。
でも私は、教職を数年で投げ出してしまったし。
今の勤務先では、先生と呼ばれるけど、先生ではないし。
日焼け止めクリームの蓋をパチンと力強く閉め、祖母の愛用していた三面鏡で全身をざっと確認した。
「よし」
縁側でおとなしく待っている愛犬のウメ子に声をかけながら近づく。
「ウメ子さん、そろそろご出勤だけど準備おっけーかな」
ウメ子の皺だらけのおでこを親指で優しく撫であげると、満足そうに眼を細めてフガフガ鼻を鳴らす。
でもウメ子の代わりに返事をしてくれたのは、お喋りヨウちゃんだった。
「準備おっけいだよー」
「はいはい」
短頭犬種、いわゆる鼻ペチャ犬であるパグのウメ子は、ずっと鼻がフガフガ鳴っている。
それはお喋りしているみたいで、「お腹空いたのね」とか「眠いね」とか私は都合よく解釈してしまうけど、本当は何て言っているのかな。
子供たちの気持ちもロクに理解できなかった私が、犬の言葉を分かるわけないか。
シニア犬用の朝ごはんはまだお皿に残っているけれど、健康状態に問題はなさそうに見える。「行こうか」と手に持っていたリードをウメ子に見せるとウメ子はゆっくりと立ち上がり、体をブルブルッと震わせた。
換毛期だからか、細かい薄茶色の毛がぶわっと飛び散り、風に乗って庭に飛んでいく。
グルルル、ブフフガ
「うん。凄い抜け毛ですね」
私は顔の前に飛んできた毛を手で払いながら、縁側の戸締りをしようと窓に手をかけた。
ふと、庭先にいたヨウちゃんと目が合い、声をかける。
「ヨウちゃん、今年も私たちと一緒に仕事いく?」
いつもは余計な独り言も多いヨウちゃんが、この呼びかけには返事もせず、丸い瞳で空を見上げ、何かを考えているようだ。
別にどちらでも構わない。
でも、ヨウちゃんが私たちの傍にいてくれると少し心がワクワクする。
「ま、いっか」
窓の鍵を閉め、ゆっくり歩くウメ子を玄関の犬用バギーに乗せた。
ウメ子は足の関節に少し問題があってお散歩に行きたがらないけれど、ずっと留守番はかわいそうだし心配なので、気候が良い時は外に連れだしている。
「門馬」の古びた木の表札がかけられた玄関の鍵を閉め、ウメ子に「行こうか」と声をかける。
その時にはもう、庭の梅の木に止まっていたはずの鳥、ヨウムの「ヨウちゃん」はすでに何処かに飛び立った後だった。
*
八時半に家を出て、バギーに乗せたウメ子といつもの川沿いを十五分ほど歩く。
「適応指導教室・かけはし」の看板が掲げられた職場の門をくぐり、玄関のガラス扉越しに声をかけた。
「おはようございまーす」
「門馬先生、おはようございます。ウメ子ちゃんも、おはよう」
玄関で花を整えていた藤原紀子先生が笑顔でこたえてくれる。
ウメ子が フガフガフガ とご挨拶をする。
藤原先生は私と同じ「指導員」で、中学校教諭を定年まで勤め上げた大ベテランだ。
「素敵。ラベンダーですか? 藤原先生のお宅の庭から?」
「そう。いい香りでしょ」
藤原先生はそう言いながら、うっとりとした表情で香りを嗅ぐ。
私は玄関脇のクスノキに取り付けられたフックに、長いリードを繋いでウメ子に話しかける。
「今の季節は外の木陰が気持ちいいね」
そして大きなクスノキを見上げながら「ヨウちゃんも来るといいね」と言った。
ここは市の教育研究所が運営する適応指導教室「かけはし」。事情があって学校に通えない、いわゆる不登校の子供たちが通う市の施設だ。
「適応指導教室」ではなく「教育支援センター」と名称を変更した自治体も多く、文部科学省も変更を勧めているけれど、うちの市は変わらずの呼称。
学校の教室に入れない、保健室などの別室登校もできない。そんな、市内の児童・生徒が、各学校と相談のうえ、所属する学校に戻れることを目指しながら通う場所。
公立の教育機関だから、民間のフリースクールと違って短時間でも「出席扱い」にはなる。けれど、通常の学校と同じような授業を行えるわけではないし、所属学校より自宅からの距離が遠くなる場合が多いし、給食がないからお弁当も必要だし。
ここにわざわざ通うというのは結構ハードルが高くて大変なことなのだ。
ウメ子は、そんなハードルをなんとか超えて登室してくる子たちを見守る「癒し系」として、特別に玄関脇に繋いでおくことを許されている。
祖母が亡くなってからウメ子を丸一日留守番させるのが不安な私と、大の犬猫好きの室長、上野先生の思惑が一致して。
「午後の運動メニューは何にしましょうか」
「そうねぇ。卓球か、バドミントンか」
藤原先生とそんな話をしながら雲ひとつない青空を見上げていると、門の外でバタンと車のドアが閉まる音がした。
「もう来たね。まだ九時前なのに」
藤原先生が腕時計を確認して小声で言う。
ここの登室時間は九時半から。けれど、いつメンの一人がいつも通り、親のパートタイムの時間に合せて車で連れられ到着した。
建物の影から北中学二年の高草木美羽さんが俯いたまま現れる。
「美羽さん、おはよう。今日も会えて嬉しいよ」
藤原先生がすかさず声をかけ、来てくれてありがとうねという言葉も小さく添える。彼女は無表情のままコクンと頷くように自分の手提げから上履きを取り出し、ゆっくりと靴を履き替える。
「今日は月曜だから、理科と数学も1組の部屋で先生たちがバッチリ教え――」
藤原先生の話を最後まで聞かずに美羽さんは静かに2組に向かって歩く。藤原先生は小さく溜息をつき、私を見て微笑んだ。
子供たちが使用している教室は二つ。
ひとつは、先生が授業したり、子供が質問したりできるクラス。もうひとつは、部屋の中で黙々と自習をするクラス。あとは、図書室と小さな体育館。
スマホは、基本持ち込み禁止だけど、学校から配付されている勉強用のタブレットは使用できる。
市内の各小中学校から集まるので年齢も制服もバラバラ。四月の在籍人数は少なかったけれど、五月の連休明けから増え、今は23人で、そのほとんどが中学生。でも全員が毎日登室するわけでもない。今日も全部で10人程度かな。
九時を回ると、今年度指導員として採用された、年下の遠山渉先生が職員室に入ってきた。
間もなく室長の上野誠一先生がいつもの黒いアディダス上下で入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます。上野先生、汗かいてますね。今日も自転車ですか」
「そう。うちの近所の信号で知っている保護者のかたが旗振りをしていたのでね。一緒に小学生を見守ってました。みんな元気ですね。グッモーニンってハイタッチですよ。そのあと保護者の方と立ち話に花が咲いてしまって。遅くなりまして申し訳ありません。自転車のスピードあげてきました」
「上野先生、危ないですからゆっくりでいいんですよ。遠山先生だって、たった今、来たばっかりですから」
私が言うと、デスクトップPCを起動しようとした遠山がビクリと姿勢を正す。
「僕の勤務開始時間は九時ですから。間に合ってますよ」
九時ピッタリに建物に入るのを間に合っていると言えるかどうか怪しいが、ここでは誰もそんな文句は言わない。
どのみち、時間に追われるような職場ではないのだ。教員免許を持っていても、一年毎の雇用契約だし、時給は県の最低賃金に毛が生えた程度。
心が疲れて教員を辞めてしまった私にとっては、ちょうどいい職場なのだけれど。
「久しぶりにオウムのオウちゃんが出勤してましたね」
額の汗をミニタオルで拭きながら、上野先生が爽やかに言った。
「あ、来てましたか」
「ウメ子さんと仲良しですね。私はね、オウムにも同じようにセラピー効果があると思ってるんです。今、藤原先生が高草木さんと一緒に言葉を教えてるみたいですよ。いやぁ、市教委に無理言ってウメ子さんを通わせること許可してもらって良かった。大成功ですよ」
さっきから聞こえる外からの笑い声は、それでなのか。
ヨウちゃんは「アレクサ、消してください」とか「業務用ナッツ買ってちょうだい」とか、結構おもしろい日常会話をたくさん話す。
「よかったです。でも上野先生、オウムじゃなくてヨウムです。ヨウムのヨウちゃん」
「ああ、また間違えてしまいましたね。すみません」
上野先生が笑うと、遠山が急に眼を輝かせた。
「ヨウムですか?」
「え、はい」
「門馬先生はヨウムも飼ってるんですか? パグだけじゃなくて」
「ヨウム、知ってる?」
「知ってますよ! 可愛いですよね。オウムじゃなくてインコですよ。大型インコ。賢いんですよ。五歳児並の能力です」
「へえ。そう言えば五歳児くらいお喋りね。モノマネするだけじゃなくて、会話が成り立ってる感じ」
「門馬先生、そんなことも知らないで飼ってるんですか」
遠山が責めるように言うので、思わず口がとんがった。
「ヨウちゃんは私が飼っている鳥じゃないです。本当の名前も知らない。春になるとうちの庭にやってきて勝手に色々喋って、ここにも勝手に来るんです。夕方にはどこかへ帰っちゃうし、寒い時期は来なかったけど」
「アフリカ原産ですからね」
「遠山先生、詳しいですね」
「四十年以上生きるんですよ。足環つけてないんですか。マイクロチップかな。放し飼いとか野鳥ってことはないと思うんですけどね。迷子じゃないですか」
「私も迷子だと思って、警察にも届けたしネットで飼い主を探したりしたんですけど、見つからないんですよ。無理やり捕獲しようとすると何か察知するみたいで暫く来なくなるし。なにより元気そう――」
言い訳している途中でデスクの電話が鳴り、遠山が受話器を取った。
「はい。適応指導教室かけはし、遠山が出ております」
窓の外を見ると、ヨウちゃんがクスノキの葉の間を出たり潜ったり、楽しそうに飛び回っている。
体全体は鳩のようなグレーで、尾の先だけ真っ赤な色をしているのが特徴のヨウム。
二年前。サチ祖母ちゃんが元気だったころに庭に来た時は、鳩がお喋りしている! と驚いたけれど。よく見たら全然違った。オウムやインコのような、下向きに曲がった太い嘴をしている。
なんとか写真を撮って、「ヨウム」という種類の鳥だということを知り、高級ペットらしいので警察にも届け出たわけだけれど。
迷子の届け出が出ていないということは、毎日飼い主さんの家に帰っているのだろうか。
「はい、おはようございます。羽根木さんのお母さんですね。蒼空くんどうしましたか。あ、藤原先生に変わりますね」
ちょうど職員室に戻ってきた蒼空くん担当の藤原先生に、遠山先生が受話器を渡す。
はい、はい、そうですか、と何やら深刻そうな声色になった。最後には「お大事に」と丁寧な口調で受話器を置き、ホワイトボードの欠席欄に「ハネギソラ」の字を書いた。
「蒼空くん、風邪ですか? 先週の金曜日、奇跡的に東中学校に行けたのに。残念ですね」
「そうね。でも……風邪って感じじゃないわね」
「中学で何かあったんですかね」
「でも東中の先生は、とっても楽しそうだったって言ってたし」
楽しくて、でも、それで疲れてしまったということだろうか。
「家庭科の授業に出たんですよね」
「そうそう」
その日の家庭科は調理実習だった。パンケーキミックスにカットした野菜を混ぜた、おかずパンケーキを作ったという。
藤原先生曰く、中学三年の調理実習ではハンバーグを作ることが多かったらしい。でも新型の感染症が流行ってから、調理実習自体が軒並み中止。先生が作るのを「見るだけ」なんて授業もあったとか。
感染症が落ち着いてきて昨年あたりから調理実習を開始しているけれど、手で捏ねるハンバーグは危険が多いということで東中では作らないらしい。
「先週、三年だからハンバーグ作るんじゃないかって言ったら、急に作りたいって蒼空くんが言ったのよ。前日の夕方だったから直接家庭科の先生に確認できなくて、メニューまでは分からなくて。ハンバーグでないなら悪いことしちゃったなとは思ったんだけど。でも、ニンジン切ったり、粉を混ぜたり、班のみんなも優しかったみたいだし。あ、そうだ」
藤原先生は机の中から一枚のコピー用紙を取り出した。
スマホで撮影したようなカラー写真が、A4サイズに大きく印刷されている。
「担任の先生が撮ったんですって。すごくいい笑顔でしょ」
エプロンをつけた五人の男女の調理中の写真。左端に立つ、マスクの蒼空くんが笑っているように見える。
「え、笑ってますよね」
「そうよ。すごいでしょ。いつも無表情の蒼空くんが笑ってるの。だけど今のお母さんの電話の雰囲気だと」
「うーん」と、藤原先生は考え込んでから言った。
「帰ってから、おうちの人となんか揉めたのかな」
遠くから「オハヨーゴザイマス」という、上野先生の声に寄せたヨウちゃんの元気な声が響く。誰が登室したのか確認のために玄関に向かった。
「あ、重森さん。おはよう!」
元気に声をかけるけど、目が合いそうで合わない重森さんが無言で2組に入って行く。
玄関から外を見ると、ヨウちゃんは低めの枝にとまり、嘴や足で体をカキカキしている。
私が「呼び鈴みたいで助かるわ。またよろしくね」と声をかけると、目をまん丸くして、誰の真似だか分からないけど、太い声で「ヨロシクッ」と返してくる。
いつも通りの朝だった。
羽根木くんが休み始め、その週末に羽根木くんの親御さんから、変な電話がかかってくるまでは。
【第1話】 かけはし
【第2話】羽根木くんの場合(前編)
【第3話】羽根木くんの場合(後編)
【第4話】高草木さんの場合(前編)
【第5話】高草木さんの場合(後編)
【第6話】横手川くんと松田さんの場合(前編)
【第7話】横手川くんと松田さんの場合(後編)
【第8話】 希生とウメ子の場合(前編)
【第9話】 希生とウメ子の場合(後編)
【第10話】 架け橋🈡
全10話
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