見出し画像

言の葉ノ架け橋【第7話】

←←最初から ←前話

横手川君と松田さんの場合(後編)


月曜日、小雨。
横手川くんは、いつものように無表情で登室した。何も言ってこない。ウメ子は金曜日からあまり食欲がなく、元気もない。小雨の中わざわざ連れてくるのは可哀相に感じて、今日はおうちでお留守番をさせてきた。

パグはもともと留守番するのが得意な犬種らしい。加えて、おばあちゃん犬だから、部屋の中でケージに閉じ込めたりしなくても危ないことはしない。『かけはし』に着いたら雨足が強くなったせいか、ヨウちゃんも出勤してこない。ちょっと静かな月曜日。

くさくさしていると、九時前に西中学校から電話が入った。藤原先生が明るい声で対応している。
「ほんとですか。松田さんが。そうですか、良かったです」

結局あの日、私は松田彩乃さんに確かめることができなかった。
具合はどうですか、という電話は親御さんにしたけれど、本人と話せそうになかったし、第一なんと言ったらいいのか分からなかった。

――横手川くんに別れを告げられた日が、なくなってますか?
いや、記憶がなくなったことは自分では分からないだろうし。

――横手川くんとずっと付き合ったままですか?
いや、そもそも彼がそう言っていただけの可能性が高いし。でも、もし本当に別れたことにショックを受けていたとしたら、触れられたくないだろうし。

迂闊なこと言えない。と、もやもやの土日を過ごしたのだった。

受話器を置いた藤原先生に聞く。
「松田彩乃さん、どうしたんですか」
「今日、友達と一緒に登校して授業を受けてるけど、その予定だって聞いてましたかって。先生もびっくりしてらっしゃったわ」
「えっ。それは急ですね」
友達と一緒に登校。少なくとも横手川君ではないのだろう。彼は『かけはし』に来ているのだから。

「今まで行けなかったのは何だったんでしょうか」
「さあねぇ。やっぱりコロナの後遺症じゃないかしら。本当に良かったわねぇ。それでね、ここの図書室で借りた本を学校に持っていったみたいで、ここに返しに行くのが嫌だって言ってるんですって」

元気に学校に行ったけれど、ここには来たくない。
横手川くんのことを避けていると感じるのは私の思い違いだろうか。
彼女にとって、例の一日がなかったことになったのかどうか分からないけれど、ここに来れなくなった理由は「横手川君の存在」が関係していたと思う。

「あ、私が学校に受け取りにいきましょうか」
「ほんと? 助かるわ」
「放課後、西中にサクっと行ってきます」
「フットワーク軽くて助かるわぁ」
直接彩乃さんに会って、話を聞きたい。聞かなきゃいけない。

『かけはし』の子供たちが帰った三時過ぎ、私はまだ少しだけ雨の降るなか、傘をさして西中に向かった。



西中の職員室で本を受け取り、そのまま先生方と話をしていると、廊下を歩いている彩乃さんが目に入ったので慌てて廊下に出る。
「彩乃さん!」
「あれ。モンちゃん、久しぶり!」
以前から彼女は私のことを馴れ馴れしく「モンちゃん」と呼んでいた。顔色が明らかに良い。化粧をしているわけでもないのに血色がよくてほっとする。
「彩乃さん。良かった。覚えてくれてて」
「やだ。当たり前じゃん。昨年度は大変お世話になりました」
彼女は、恭しく頭をさげた。
「あ、もしかして本を取りに来てくれたの? わざわざ? ごめんね。わ。なにこの肘のケガ。痛そう」
ちょっとは敬語を使おうねと言いたいところだけど、とにかく私にとっては彩乃さんが笑顔でいてくれることが嬉しくてたまらない。肘のケガなんて痛くも痒くもないし、しかもここは彼女が通えなかった西中学校の中だ。信じられない。

「ちょっと、話できるかな」
「うん、いいよ。部活は正式にやめたから時間あるんだ」

中学校の部活動を途中でやめた。
それは印象が良くないので、たとえ欠席でも内申書のために所属したままでいる子がほとんど。だけど彩乃さんはそういった中途半端なことが嫌いなタイプなのだろう。やめてスッキリしたという顔をしている。

雨はすっかり止んでいた。校庭が見渡せるベンチに並んで腰かける。校庭では早くも野球部の掛け声が聞こえはじめている。

「松田さん、あのね」
「うん。なに」
「あのさ。えっと、横手川くん、が、ね」
戸惑いながら言うと彩乃さんの顔色が変わる。そうだよね。何かの記憶がなくなったとしても、彼のことを全て忘れたわけではない。

「モンちゃん」
言い澱んでいる私の代わりに彩乃さんが口を開く。
「モンちゃんのおかげなんでしょ?」
「え、何が?」
「モンちゃんの飼ってる、ウメ子先生のおかげ」

ウメ子の事をウメ子先生と言うのは、例の噂を知っている人だけと思う。横手川君も彩乃さんから聞いたと言っていた。そして今回、横手川君が何かしたということを彼女は知っている、という気がした。

「動画のこと、全く記憶にないみたいなんだよね。横手川」
「動画? いや、待って。横手川くんの記憶がないの? 彩乃さんじゃなくて? いつの?」
矢継ぎ早に聞いてしまった。それに、横手川という呼び捨てにも違和感がある。彼が「彩乃」と呼び捨てするのとは違うニュアンス。

「モンちゃんが動画を消してくれたのは良かったんだけどさ、あいつ金曜日に雨の中びしょびしょになってうちに来たの。それでね、動画を撮った日のこと自体を覚えてないみたいだったんだよ。それはウメ子先生が消してくれたの?」
「動画を撮った日……」
「うん。虐めたやつと闘うって僕は約束したけど、証拠は何でしたっけ、って。間抜けな顔で。思い出せないんですけど、お母さん覚えてますかって、うちのママに聞いてんの。なんか、逆に笑っちゃった」

そう言えば、横手川君は二人で一緒に闘うと言っていた。
「なんか自信なさげで様子がおかしいから、今がチャンスかなと思ってスマホを見せてもらったんだよ。そしたらやっぱり動画がない」
「ねえ、動画って勉強の? 彩乃さんは、その動画が消されてよかったの?」
私は、五時から勉強の動画を見るといっていた横手川君の言葉を思い出していた。
「は? 勉強の動画ってなに。何言ってんの。モンちゃんが消してくれたんじゃないの?」
「横手川君のスマホの中なら、小学校の卒業式の写真を見せてもらったけど。それじゃないよね」
彩乃さんはプっと噴き出した。
「そんなんどうでもいいよ。なんだ。モンちゃん、動画を見てないんだ。よかった。モンちゃんなら見られても我慢できるけど。見てないなら、その方がいい」

「それ、どんな動画なの」
さっきまで血色の良かった顔つきに、急に翳りがともる。下を向いて暫く言葉を探しているようだった。
「あたしが虐められた証拠だよ」
「えっ」
「虐めって言うか、服を脱がされた」
「ええっ」
彩乃さんは引き攣った笑いを見せて続けた。

「二年の時。水泳部の部室で着替えてるときに先輩たちが来て。あ、先輩って、みんな女だからね。でも横手川のスマホで撮影されたんだ」
「横手川君が撮ったの?」
「ううん。横手川が虐められててさ。あー、どっちかっていうと横手川のほうが酷かった。泳げないくせに水泳部なんて入るからだよね。パシリにさせられたり、お金とられたり。いつもボコボコにされてた」
彼女は、ハハと乾いた声で笑った。

「横手川が夏休みの部活にスマホ持ってきたんだよ。結構高い機種だったから嬉しくて自慢したかったのかな。バカだよね。先輩たちに取り上げられちゃうから隠しなよって言ったんだけど、案の定で。それで先輩たちが、私の着替えを動画に撮ってSNSに流せって横手川に命令したんだって」

息が止まった。そんなものネットに流されたら一生消せない。
すぐに削除したとしても、削除要請したとしても、あっという間に拡散され、スクショされ、どこの誰だか特定され、どこかに保存され続け。

完全に消したと言い切ることは、できない。絶対に。

「先輩が、着替え手伝うよーとかヘラヘラ言ってきてさ、強引に脱がされて。気づいたら撮影してるからヤバイと思った。だけど途中で顧問の先生が気づいて。先輩たちは走って逃げた。それで慌てて横手川にスマホを投げて返したらプールに落ちたんだってさ。水没。で、壊れたらしい。なんで撮れてないんだよって怒った先輩たちが横手川をボッコボコにしてた」
彩乃さんは、アハハと取ってつけたような笑いをする。

「じゃあ、動画は撮れてないのね? よかった。でも、それなら今回消された動画って?」
「それがね。撮れてないと思ったんだけど、あいつの執念でデータを復旧させたのか、そもそも水没したってのが嘘なのか分かんないけど。あいつ、春休みにうちに来て、動画があるって言い出したんだよ」
「え」
「先輩はみんな、女だからさ。直接裸を見られたのは大したことないんだ。合宿で一緒にお風呂も入ってるし。まあ、いろいろ殺してやりたいほど憎いのは憎いけど。でもデータが残ってるって言われたらさ。怖いじゃん」
「横手川くんは、見たの?」
「知らないよ。でも、見たでしょ。気持ち悪い。本当に気持ち悪い」

恥ずかしいではなくて、気持ち悪い。
それは完全に、彩乃さんは横手川君に好意を持っていないということだろう。

「あいつ、虐められた証拠になるから訴えようとか言いだしたんだ。アホでしょ。モンちゃん、どう思う?」

私は答えに窮した。
たしかに証拠にはなると思う。だけど、その証拠を誰に見せてどの程度の罰が与えられるのか。とても釣り合うとは思えない。直接、その場で裸を見られたことは気にしていないなら余計に。
人の手によってデータが残されていることは、彼女にとって恐怖でしかない。そう思う。

「横手川がデータ持ってるのが耐えられないから捨ててって言ってるのに。僕が守るとかワケ分かんないこと言うんだよ。先輩は卒業したから、学校は今ならきっと先輩たちじゃなくて僕たちを守ってくれるって。でも僕たちが結託して嘘をついていると思われたら困るから、ちょっと僕たちの距離を置こうとか。ワケ分かんないんだよ、本当に。ばかでしょ。ウケない?」
彩乃さんは一気に吐き出したあと、一拍おいて言い放った。

「あいつ、アタマおかしいんだよッ」

私は「落ち着いて」というように、彼女の背中をさする。
彩乃さんはため息をついてから話を続けた。

「私、先輩たちにされてきたこと、ウメ子先生に全部食べて欲しいってずっとお願いしてたんだ。だけど、ずっと忘れらないどころか、春休みになったら横手川が動画を持ってるとか言い出すし。気が狂いそうになった。ちょっとウメ子先生を恨んだよ」
彩乃さんは小さく「疑ってごめんね」と笑った。

「あいつの虐められてた分も、一緒にウメ子先生に頼もうよ、一緒に全部、嫌なことは忘れようよって言ってみたけど。全然ダメで。あいつに逆らったらSNSに流されるんじゃないかと思って怖くて。とにかく、あいつの目つきが怖くて。なんか、逃げたくて」

彩乃さんは、横手川君に人質をとられているようなものだったんだ。どうしていいのか分からず、ただ逃れたかった。

「誰かに相談した?」
「ママにはこれ以上、迷惑かけたくなかった。先輩にされてきたこと、今までせっかく我慢してきて、やっと卒業したのに。パパに言ったら、それこそ訴えるとか言い出すだろうし」

その日だけでなく、色々な虐めに耐えていたんだ。休んでいたのは病の後遺症だけではない。学校は把握してなかったみたいだけど。

「でもね。あるとき思ったの。一緒に闘おうとか言うけど、本当は自分のことしか考えてないんじゃないかって。自分が虐められてた証拠がないから、自分のために先輩たちに復讐したいんじゃないかって。それを、友達にちょっと言ってみたの。そしたら友達がね、水泳部のことは知らなくて、助けてあげられなくてごめんって。一緒になって真剣に怒ってくれて。やっと本当の友達になれたって言って泣いてくれたの。私、もっと、友達のことを頼ればよかったのかな。それから横手川のこと、なんか色々、友達が頑張ってくれたみたいで」

なんか色々、頑張ってくれた。
何をしたんだろう。説得してくれたのだろうか。でも友達が頑張ってくれたということが、今の彩乃さんの大きな支えになっているのかもしれない。

「動画を見たのはきっとあいつだけだから、動画とあいつの記憶が消えれば、もう満足なんだ。今は嘘みたいにモヤモヤが飛んで行った」
さっきまでジメジメしていた空が急に明るくなり、これから夏がくるという空気であたりが満たされる。野球部のノック練習が始まる。

「昔は横手川と遊ぶのも楽しかった。いい子だったのに」
そう言って、彼女はすっくと立ちあがった。
「だから、ありがとう。先生」
彼女は恭しく頭を下げ、そして顔をあげた時には満面の笑顔に戻っていた。

彩乃さんは、「もう行くね」と言って私に小さく手をふり、遠くでずっと待っていた可愛らしい二人の友達に駆け寄る。

良かった。
ネットに出回ってしまった写真は、いくら削除しても全て消えたと言い切ることは絶対にできない。断言できることって世の中そうそうないけれど、これだけは断言できる。「絶対」だ。
本人の傷が癒えたころ、小さな幸せを掴んだ時こそが危険で、そのタイミングを狙って傷口を晒し、塩を塗り込もうとする奴が現れたりする。その恐怖とずっと戦わなければいけないんだ。そんなの辛すぎる。

今まで、傷も抱えて成長すればいいとか、未来に目を向ければいいなんて思っていたけど。必ずしも、それでは済まない場合もある。

私もベンチから立ち上がった。
横手川君が記憶がないと言っているのは何か要因があるのだろう。人の記憶なんて曖昧なものだから。
動画が消えたのは。

……なぜだろう。

一度水没して消えたデータ。いったん復旧できたけど、やっぱり壊れてしまったとか。画面もバキバキの古い機種だったし。

ヨウちゃんがあのとき木の上で削除したとか?
「まさかね」
私はフフと笑った。

校門を出たところで、持ってきた傘を職員玄関の傘立てに忘れてきたことを思い出した。小走りで戻ると、さっきの女の子二人が彩乃さんの両隣りを囲むようにして渡り廊下を進んでいるのが見えた。

三人ともいい笑顔。このまま卒業まで、楽しく過ごせると思う。

傘を手に取ると、自分の靴ひもがほどけているのに気づいた。屈み込んで結び直しているときに、ちょうど女の子たちが背後を通り過ぎる。

「いいって。彩乃とうちら、シンユウじゃん」
「ヨコテが絶対に戻れないように、また頑張るからね。安心して」
クスクス笑う声だけが響いて渡り廊下に取り残される。

彩乃さんがどんな表情をしていたのかは分からない。
青春真っ盛りと言わんばかりの複数の足音が、軽やかに去って行った渡り廊下を背に、私は再び門へ向かう。

靴紐は上手く結べないまま。


【第8話】希生とウメ子の場合(前編) →



この記事が参加している募集

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 サポートしていただいた分は、創作活動に励んでいらっしゃる他の方に還元します。