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言の葉ノ架け橋【第8話】

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希生とウメ子の場合(前編)


亡くなったサチばあちゃんが縁側に腰をかけ、幸せそうな笑みを浮かべている。隣の座布団に伏せているのは、ウメ子。
「ばあちゃんの人生も山あり谷あり。辛いことも、そういやぁたくさんあったなぁ。でもね、希生」
これから先の人生も、まだまだ楽しいと信じている瞳で、サチばあちゃんは私に語りかける。
「どれもこれも全部、自分が選んた大切な時間。後悔はないし、忘れたくもない。死ぬまで心に刻んでおきたいんさぁ」
 
そんな夢の中のサチばあちゃんに、私は問いかける。
 
――でも、サチばあちゃん。辛いことは早く忘れたほうがいいって、みんな言うよ。忘れないと次に進めないって。
 
休職が長引き、結局そのまま教員を辞めてサチばあちゃんの住む田舎に逃げてきた。休職中、待っている仲間がかけてくれる言葉はどれも優しさに溢れていたのに。それなのに私は、なかなか次の一歩を踏み出せなくて。

「無理に忘れなくていいん。忘れられないことは、忘れてはいけないことかもしれないよ。だけど、希生。忘れないと進めないなんてことはないさ。ダイジに引き出しの奥に仕舞ったまんま堂々と進めばいいよぉ」

忘れてはいけないこと。

常に子供たちのことを思って行動してきたつもりだった。同じ未来を見ているはずの人たちと、手を取り合わなければいけなかった。どんなに拒まれても、どんなにキツイ言葉を投げられても、それを諦めるべきじゃなかった。
「最近はさ、言葉がまともに通じない親もいるんだよ」
「時には逃げることだって必要なんだから」
そんな慰めの言葉に甘えて、被害者ぶって、全部忘れて、次の年に進むなんて。そんなずるいことできない。自分で責任を取れるようになりたいと、そう思っていたのに。

ウメ子は、私よりはるかに大変な時代を生き抜いてきたサチばあちゃんの手に優しく撫でられ、グルグルと喉を鳴らして目を細める。サチばあちゃんが、立ち上がって振り返った。

「希生。どうしても忘れてしまいたいなら、ウメ子にお願いするといい。ウメ子が忘れたい日を食べて、なかったことにしてくれる。寿命を削ってでも願いを叶えてくれるってコージさんの話だよ。ウメ子には本当にその力があると、ばあちゃんは思う」

コージさん?
サチばあちゃんは「うふふ」と少し笑った後、強い眼差しで私を見つめる。
「だから、どうする? 希生は、願うか」
 
ウメ子が私を救ってくれる。自分の寿命を削ってまで。

――おばあちゃん、私。私は……、

私は、なんて答えたの。
サチばあちゃんは、そうか、そうかと満足そうに微笑んで、背中を向けて歩きだす。ウメ子を連れて。

――待って! まだウメ子は連れて行かないで。

夢の中で手を伸ばす。ウメ子が振り返って私を見る。

クゥゥン。フガフガフガ。

――なんて言ってるの? 分からない、教えて。お願い、一人にしないで。ウメ子、ウメ子!


 
日曜の午後。じっとりと首筋に汗を感じて、うたた寝から目覚めた。
久々にサチばあちゃんの夢を見たのは、サチばあちゃんの部屋で横になっていたからか。知らず知らず目頭から零れ出たものが、畳にわずかなシミを作った。

ううん。あれは夢じゃなかった。なんで忘れていたんだろう。
ウメ子の不思議な力の話を聞いたことがあった。子供じゃないんだからと言って、あの時の私は笑い飛ばした。
「私は大丈夫。自分が辛かったことを忘れるために大事なウメ子を犠牲にするなんて。絶対にいや」
そう言ったら、あの時サチばあちゃんは「そうか、そうか」と満足そうに微笑んだ。

本当は、嘘でも何でもいいから助けて欲しかった。嫌なことは全部忘れて、薬に頼って生きる自分もなかったことにして、一から出直したかった。
「かけはし」で働くと決めてからも、悩みの絶えないご家族と正面から向き合えるだろうか、私なんかが子供達の力になれるだろうかと、不安しかなかった。

そんな自分が不甲斐なくて。
だけど、弱いところも見せたくなくて。
笑い飛ばして誤魔化した。

居間の隅にくるまっているウメ子は、まだ鼾をかいて眠っている。庭に面した掃き出し窓をコンコン叩く音が聞こえて、畳から体を起こした。いつもの来訪者かなと、レースのカーテンと窓を開ける。
「いらっしゃい」
「オハヨー、オハヨー、ゴザイマッス!」
ヨウちゃんが叫ぶように挨拶をして、梅の木の定位置にとまる。
「もう午後ですよ」と言いながら、お昼ご飯に食べ散らかしていたコンビニパンの袋を、わしゃわしゃ掴んでゴミ箱に捨てる。その音で目覚めたウメ子が、フゴフゴと鼻を鳴らし、ヨロヨロと起き上がってトイレを済ます。

「ウメ子」
名を呼ぶとフガフガ返事をするのは変わりない。水は飲めるし、きちんと排泄もできる。でも動きがかなり緩慢になってきたし、息苦しそうに見える時もある。ウメ子はまだ十歳にもならないはず。でも、少し老け過ぎている気がする。

ウメ子はもともと繁殖用に飼われていた犬。
毎年なん匹も赤ちゃんを産まされ、散歩や遊びはさせてもらえず。子を産めなくなる年齢になると不衛生なゲージに閉じ込めるような悪徳ブリーダーに育てられた。そして通報により、推定六歳のとき保護された。

おっぱいはびよんと伸びて垂れ下がり、栄養はすべて子供に与えてしまったのか歯はボロボロ。暫くは歩くこともままならなかったと聞いた。
保護活動に関わって、そのままウメ子を引き取ったのが、当時、このご近所でひとり暮らしをしていたコージさん。サチばあちゃんは、「若い時の彼氏」だなんて言っていたっけ。

年老いたブリーダーが言うには、繁殖犬の名前はどの犬種でも「コウメ」。
ただ元気な「子」を沢山「産め」ばいいからだと。
でも、「あの梅の花のように可愛い子だから『ウメ子』に改名しよう。今日からあなたはウメ子だよ」と、サチばあちゃんとコージさんは、毎日毎日、彼女の不憫な記憶を上書きしようと優しく言葉をかけ続けた。
「ウメ子。かわいいウメ子。死ぬまで大事にするよ」

ところがコージさんが病気にかかり、間もなく家族と同居するといって引っ越していった。
「入院の時にウメ子を預かって。そのまま私の家族になっちゃったわ」と、サチばあちゃんは舌をペロっと出して言った。「それでよかったんか」とウメ子に問えば、ウメ子は幸せそうにフガフガフガと返事をした。
「ありがとう、おばあちゃん。大好き」というように。

保護された時から四年ほど経ち、今はもう白髪だらけで、鼻以外は白黒ぼんやりした色合いになっている。首の皮膚はたるんとしている代わりに、顔の皺が少なくなって全体につるんとしている。十歳よりも、もっと年老いたシニア犬の風貌。

「ウメ子は苦労したからね。でも、もう忘れられたかな」
頭を撫でると力なく瞳を瞑り、ペタンと伏せたままグルグルと喉を鳴らす。それを見ていたヨウちゃんが言う。
「ゲンキ、ナイネー」

たしかにウメ子は、この前の横手川君の一件から急にグッタリしてしまった気がする。
サチばあちゃんが言っていた、「寿命を削ってでも願いを叶えてくれる」というセリフが生々しく蘇る。

彩乃さんがウメ子を撫でて願っていたというけれど。こめかみをグリグリ押して考えた。まさかね。

「ウメ子、ツカレタ。キョウハ、ダメネー」
ヨウちゃんが、片足で首元をカキカキしながら、どこかのおばちゃんみたいな言い方をする。

――ソラは、だめなんですか。

蒼空そらくんのお母さんが言っていた言葉。
あれは「瓜生くんは食べてもらったのに、蒼空は食べてもらえないのか」という意味だろうか。
ずっと優秀だった瓜生諒太君が、レベルの高い塾のテストで失敗して以来、パニックになってしまうのだとお母さんに相談され、私は何と言ったのだっけ。過度なプレッシャーをかけないよう話をして、でもお母さんに激高され。
あのあと、私はウメ子の力を借りたのだろうか。

まさか。そこまでの記憶は全然ない。
「マサカネー」
でも、蒼空くんのご両親は知っていた。
「マサカヨーォ」
じゃあ、美羽さんは?

――先生のおかげです
噛み合わなかった美羽さんのお母さんとの会話。
教育費をあてにしているお祖母さんに多額の寄付をして欲しくないと相談され。お年寄りの、たった一日の記憶くらい消えても構わないと、そんな酷いことを思ったのだろうか、私は。あるいは、頭を下げられ断りきれずに?

ウメ子が心配そうな顔をして、弱々しい声で何か訴えてくる。
「グホグホ、ブフフォォン」
はっきり思い出せない。
「フグホグ、ブフォン」

でも、ウメ子が年齢より年老いている。それが何よりの証拠じゃないだろうか。きっと私のせいでウメ子は寿命を縮めてしまった。ごめん……。
頭にズキズキとした痛みが襲ってきた。

「ブヒブヒフガ」
梅の枝に止まっていたヨウチャンが、バサバサと翼を広げて声をあげる。
「覚えてないの?」
ヨウちゃんの流暢な日本語に、ウメ子を撫でる手が一瞬止まる。
「え? どういう意味?」
私が尋ねると、ウメ子を確認するように見てから繰り返す。
「覚えてないのーォ?」
ヨウちゃんはそう言って、庭の生け垣の向こうから聞こえた人の声が気になったのか、急に道路に飛んでいってしまった。

覚えていない。
親御さんに相談された記憶はあるのに、ウメ子に食べさせた記憶が全くない。

まさか――。

ウメ子が自分の鼻をペロリと舐め、「フーッ」と大きなため息をついた。
「フガフゴフゴゴゴ」

ウメ子の白くなってしまった口周りの毛や、皺の少なくなってきたおでこ、それでも赤ん坊のように真ん丸くて黒目の多い瞳に見つめられ、体中の毛穴から汗が吹き出た。

まさか私も、その日を「食べてもらった」んじゃないだろうか?
保護者の願いを叶えて、感謝されて、満足して。藤原先生から保護者対応が上手になったなんて言われて、いい気になって。
でもグッタリしたウメ子に気付いて激しく後悔して。

その日を忘れたいと願ってしまった――。

その思いがまた、ウメ子の寿命を縮めてしまった。そういうこと?
ウメ子はずっとフガフガ鼻の奥を鳴らして私を見つめている。いつものように従順な瞳で。

キイのためだよ。キイのために、がんばったよ。

そう言っているの? 
そしてまたグッタリと力なく寝転んでしまうウメ子を、ここで抱きしめて、撫でていいのかどうかも分からず、伸ばした手で宙を掴む。
これ以上謝って後悔したら、また、よからぬ事態が起きそうで。言葉にならない。どうしよう。

「オキャクサン、ヨーォ」
ヨウちゃんの大きな声でハッと我に返り、同時に「ごめんください」と玄関先で女性の声がした。
「門馬さん、ご在宅でいらっしゃいますか」
縁側から玄関前を見ると、四十代くらいの少しふくよかな女性が私に気付き、微笑んで頭を下げている。
誰だろう。
ウメ子を気にしながら、そのまま縁側からサンダルを履いて庭に出た。

「突然すみません」
「はい」と言いながら玄関脇の生垣まで近づくと、その女性の後ろには小学生くらいの女の子、そしてその隣に杖をついたお爺さんが立っている。どこかで見た顔。
「あの、父がですね。あ、今は、えっと『青葉の家』という老人ホームに居るんですが、以前……」
「あっ!」
女性の説明を聞いて思わず叫び声をあげた。『青葉の家』。そうだ。美羽さんと一緒に訪れた老人施設で、このお爺さんに会った。ウメ子のことを「コウメ」と呼んだお爺さん。あの呼び方をするということは、きっとウメ子を悲惨な環境に置いていたブリーダーに違いない。
「カツトシ……」
声に出すつもりはなかったけれど思わず漏れた。にこやかだった女性は少し戸惑いながら話し出す。
「父と面識があるんですね。良かった。あの、こちらにパグちゃんが」
「何しに来たんですかっ!」
「えっ、はい、あの」
女性がビクンと背筋を正し、小学生の女の子は女性の背中に隠れて服をギュっと握りしめる。
「いまさら、何の用ですか!」
まさか、今さらウメ子を返せという話だろうか。そんなこと絶対させない。絶対に許さない。
私は両方の手の平をぎゅっと握りしめ、一歩前に出る。

女性は私の剣幕に戸惑いながら、「いまさら、本当にすみません。それでもひとこと謝りたいと父が。あ、私も」と、穏やかに話しましょうというポーズで両手の平を広げて前に出し、低い姿勢で話す。
「謝りたい?」
本当に何故いまさら。謝ってどうにかなる問題ではない。
頭に血がのぼって、見た目は弱弱しいお爺さんを殴ってしまいそうな自分を必死におさえる。

「おやおや。サッチャンから聞いていたより随分と威勢の良いお嬢さんだ」
サッチャン? 馴れ馴れしい言い方に、余計に腹が立つ。
「祖母を知っているんですか。祖母から何を聞いたのか知りませんが、私は悪徳ブリーダーなんて絶対に許しませんからねっ」

思ったことを、そのままくちに出した。私だって、時には強く言えるんだから。
「え。あ、悪徳ブリーダー?」
女性が首を縮めて聞き返す。
「キイ先生は、勘違いなさっとる」
この期に及んで、勘違いとか……。
ちょっと待って。キイ先生?
なぜ私のことまで知っているの?

ヨウちゃんがバタバタと翼を羽ばたかせながら大声をあげた。
「ドチラサマ、デスカーァ」
すると女性が、あら言葉がじょうずねと感心しつつ、私に向かってまた頭を下げた。
「以前、すぐそこの公民館の裏手に住んでました、小路口こうじぐちです。門馬サチさんには、昔、私もよくお世話になって」
「コウジグチさん?」
「はい」

コウジ、グチさん。もしかして。

「はじめまして、キイ先生。小路口勝利こうじぐち かつとしと言います。サッチャンからコージと聞いたことがあるかな」
「コージ、さん……」

悪徳ブリーダーからウメ子を保護したコージさんは、私に向かって深々と頭を下げた。

【第9話】希生とウメ子の場合(後編)→



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