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咳をしても 《#シロクマ文芸部》

咳をしても金魚。
「え。お母さん、本気……ですか?」
教頭は鮫島夫人に聞き返した。明らかに顔が引きつっている。
「もちろん本気ですよ。うちの結愛なら、咳してても金魚くらい演じられます」
「イヤイヤイヤ……」
教頭は、咄嗟に出た否定の言葉にマズイと感じたのか、慌てて付け加える。
「いやもちろん、結愛ちゃんなら優秀ですから何でもできますけど、でも、あの、さすがにお休みがいいかと……」
熱と咳がある娘をこれから学校のお芝居に出すという、地元では知らない人のいない鮫島建設の夫人に対して、教頭は今日も弱腰になっている。

情けない。
ならば私がハッキリ言わなければいけない。

「鮫島さん。金魚はエラ呼吸ですから咳しません」
「はぁ?」
夫人は私の言葉にポカンとした顔を向けた。
教頭も「え、そこ?」という顔を私に見せたが構わず続けた。
「それに金魚じゃなくてスイミーです。スイミーは何科の魚類か作者は明記していませんが仲間がマグロに食べられてしまうことを考えると少なくとも淡水魚では――」
「ちょ、ちょっと。犬田先生は黙っててくださいよ。ややこしくなるから。もぅ」
教頭は、今度は私に向かって両手を出してストップをかける。
「さあ教頭、『一年生を迎える会』が始まる時間です。ホールへ行きましょう」
私が腕時計を確認しながら言うと、鮫島夫人が金切り声をあげる。
「主役の結愛が不在で、どうやってお芝居を始めるつもりかしら!」
教頭は青筋たてる夫人にビクつくが、私はただ夫人の言葉を訂正するために口を開く。
「鮫島結愛さんは主役ではありません。主役のスイミーは2組の鯉山くんで、黒い魚の……」
「あーあーああっ!」と教頭は大声で叫び、「犬田先生、バラしちゃだめだよ、空気読んでよぉ」と泣きそうな顔をして小声で私の腕をひっぱる。
空気読む? 私は今の状況なら正確に把握している。

結愛さんは虹色のクラゲ役を希望したが母親は娘に主役をやらせたいうえに娘は赤色が似合うので話を少し変えろと無理難題を押し付けてきたが主役は予定通りの鯉山君でいくけど保護者はどうせ観覧できないからバレないと教頭が浅はかな判断を下したのちに文字通り雑魚役の赤い体操服の子とは区別をつけたいのでオランダシシガシラのようなドレスを東京のショップに作らせているから何時に持ち込めば間に合うかと夫人からの確認の電話に教頭が汗だくで時間を伝えたところ肝心の結愛さんは朝から熱と咳がでて寝てると5年生のお兄ちゃんが一人で登校しこれは丁度良いと教頭が禿げ頭を撫でおろした2時間後に夫人がドレスを担いで学校に到着するも娘が学校に居ないことに驚いて携帯で何やら電話をしたあと「娘にこれを着せます」「熱と咳があるのでは?」「咳が出ても金魚くらいできますよ」という冒頭の流れだ。うん。

「主役じゃないって、変なこと言うわね。ああ、あなた臨時雇用ですものね」
鮫島夫人は私を軽く睨んで「結愛はまだかしら。遅いわね」と来客用玄関から校門を振り返る。
「え、おうちで寝ているんですよ……ね?」
教頭が眉を顰めて恐る恐る夫人に尋ねた。
このまま鮫島夫人を宥めて時間をやりすごせば3、4時間目の『一年生を迎える会』も教頭不在のまま始まって、なんとかなるかもという算段だったようだ。
夫人は平然と「いいえ。さきほど電話したらいつもの声だったから早く支度して学校に来るように伝えましたよ」と眉をあげて言う。
「え、じゃあ結愛さん、学校に向かって一人で歩いているんですか……ね?」
教頭のその言葉を聞いて、私は猛烈に居ても立ってもいられなくなった。
室内履きのまま、玄関から飛び出してダッシュで校門に向かう。
教頭が背後で何か叫んでいるが、構わない。

――結愛さんの家は近くはない。3年生になったとはいえ、小さな体で、しかも体調が悪いというのに。

私は校門を飛び出て、結愛さんの自宅がある方向へ止まらずに走り、大通りを駆ける。

――娘が可愛いと言いながら、今朝から2時間以上ずっと、結愛さんはおうちで、咳をしても一人……

大通りの歩道橋を3段飛ばしで駆けのぼり終えた時だった。
歩道橋の向こう側の階段をちょうど登りきった小さな女の子が目に入った。
「あ。犬田センセイだ!」
満面の笑みで手を振る結愛さん。
私はホッとして汗をぬぐい、息を整えながら小走りで近づいた。
「良かった。咳は? 熱は?」
「全然だいじょうぶ。実はね……」
結愛さんは口の横に手を当てて、私に一歩近づいた。
「写真で見た金魚ドレスが嫌で、ズル休みしたかったの」
いたずらっぽい笑みでウフフと笑う。
「そっか。結愛さんはクラゲ役が良かったんだもんね」
「え? ちがうよ。うなぎが良かったのに、長井くんにとられちゃったの」
「うなぎ? スイミーにうなぎなんて出てたっけ」
「やだぁ。『かおを見るころには、しっぽをわすれているほど長い』うなぎだよ。知らないの?」
そっか。そんなのあったか。
正規雇用の新任のころ2年の担任をしたけれど、ずいぶん昔だからすっかり忘れていた。
「犬田センセイ、またママに『リンジコヨウ』って言われちゃうよ」
そういって笑う結愛さんの頭を私は軽く撫でた。そして私たちは学校に向かってゆっくり歩き出す。
「センセイ、急がなくていいの?」
「うん。いいよ。遅刻しても、ふたり」

(了)

小牧さまの企画に参加させていただきました。今回は(も?)お題が難しくてかなり悩みました。

が! 犬田先生、ちょっと私のお気に入りキャラになるかもしれません。キャラに命がこもるような瞬間が、創作の醍醐味と思います😊
貴重な時間を与えてくださった小牧さんに感謝です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 サポートしていただいた分は、創作活動に励んでいらっしゃる他の方に還元します。