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「難聴の11歳女児の逸失利益」の話


今朝のニュースで私の目に入った

「聴覚障害の11歳女児の逸失利益は“全労働者の85%」

という裁判所の判断

私はとても腹立たしいのです モヤモヤします



何が腹立たしいのか考えました

「人間の成長、11歳のお子さんの可能性を障害があることで軽視した」

事だと思い至りました


私は職業柄、たくさんのお子さんと関わってきました

お子さんとの関わりには

「特性」

「障害」

「個性」

様々なお子さんの捉え方、考え方があります

そのような考え方の中で

「障害」を抱えながらもそれを「個性」として昇華し、社会に活かしている人もたくさん見てきました

身体障害がありながらも、空手で結果を残した人もいます

知的障害を抱えながら絵を描いて生計を立てている人もいます


私には

「まさかあの子がそういった道に進むなんて」

と予想のつかない事ばかりでした

そこにはたくさんの努力があったのは容易に想像できますし、

その人達は自分の力、周囲の力を借りて

自分自身の「障害」を「個性」や「自己実現する力」に変えたのです

それはこの亡くなったお子さんにも同等の可能性がありました


私は定期的に表明していますが

「全ての人類には障害がある」

という考えです

大なり小なり、自分の自己実現への「障害」は必ずあるのです

個人にか、環境にか…

それをいかに取り除くか、自分のモノにできるかが重要なのです

広島高裁は

「障害のない人と比べ、差があると言わざるを得ない」

としていますが、

「このお子さんにとって聴覚がないことは本当に障害だったのだったのか」

「聴覚障害があればそれはない人に比べて劣っているのか」

「障害を持つ人への給与体系などの社会の障害ではないのか」

という疑問が私には残ります

障害を持っていることは必ずしもその人の能力を下げるわけではないし、

「社会の障害」を「個人の責任」にするにはあまりに行政が仕事をしていません

これが私の苛立ちの正体だと感じました








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