多様性のシーソーゲーム

最近はサスペンスドラマにて犯人が車で逃亡するシーンでは、犯人はシートベルトを着用していないといけないらしい。
フィクションである作品の表現がリアルに悪影響を及ぼしてしまうという意見はよく耳にする。最近に限らず以前からこのように思っていた人は少なからず存在していたであろう。

ではなぜ最近になって犯人はシートベルトを着用することとなったか。

この疑問から現代の多様性の考え方を私は見出した。

サスペンスドラマの犯人役がシートベルトを着用するべきか否か
という題に対しここでは大まかに分け3つの立場が存在すると仮定する。

サスペンスドラマの犯人役がシートベルトを未着用で逃走することへの

  • 反対派

  • 賛成派

  • どちらでもいい派

である。

反対派は実生活への悪影響、犯罪行為の助長を主張する。
賛成派は表現の自由を主張する。

色々な考え方があって良い。にも関わらず両者が同じ空間にてテレビのサスペンスドラマを観ても、どちらか片方はもやっとしてしまうのだ。
いっそのこと車で犯人が逃亡するようなシチュエーションのドラマは放映しないべきなのか。

現実はそうもいかず、結果的に反対派の意見が取り入れられ、犯人は今日も安全運転を心掛けている。
そう至った経緯として、反対派がどちらでもいい派を上手く取り込めたことが挙げられる。
状況を可視化しよう。

賛成派と反対派は同じシーソーに乗って公園で遊んでいる、真ん中にはどちらでもいい派が右往左往する。

シーソーが置いてある公園を多様性公園と名づけよう。
多様性公園のシーソーでは今日も明日も賛成派と否定派とどちらでもいい派が存在し、賛成派と否定派は自分側にどちらでもいい派を勧誘している。

その結果重力に逆らえず、片方はシーソーから放り投げられてしまうのだ。

多様性公園を作り、そこにシーソーを置いた時点でどちらかは吹っ飛ばされてしまう運命なのである。

公園が作られた現代において、シートベルト未着用賛成派はシーソーから振り落とされてしまったのだ。


それでは多様性などあったものではない、片方の意見は排され、片方の意見だけが生き残っていくではないか

そう捉える人もいるだろうが、少し考えてみると

シーソーから放り出されても、シーソーの真横に落ちるか、せいぜい多様性公園内の砂場であろう。
公園内にいる限りまた自由に一緒に遊ぶ(討論を重ねる)ことができるのだ。

多様性について考えるときに
誰かが排され誰かが生き残るといった勝ち負けの構造ではなく
多様性が認められているという前提が成り立つ土台作りが肝心であると再認識させられる。

これからもサスペンスドラマの逃亡犯は法定速度で車を走らせるし、後部座席の協力者までもがシートベルトを着用しているかもしれない。
しかし、表現の自由を重んじる人も肩を落とすことはない。現代は様々な価値観や文化かが認められている多様性の社会であるという噂だ。
ちなみに私はどちらでもいい派である。

#多様性を考える

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