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~学生新聞に見る北海学園大学70年史~来たる「昭和67年」のために/「サブ」の時代 1987~1992~1997

※サムネイルの画像は本学新聞にあった若かりし日の大泉さんである

「(静修女子短大生の彼女を連れて)学生部の前を通ると、ちょうど、中から学生部のHさんが出てきた。「おい、どこの子連れてきたんだ?」そう、学生部のHさんは、学園大の全女子学生を記憶しているので、他大学の子を連れてくると、すぐわかるのである。図書館新設のためにつくられた仮設通路を出と、生協喫茶“虹”の窓から、俺に手を振る奴がいる。見れば、やたら知り合いがいる。俺と彼女をはやしたてている奴もいる。そんな中に彼女を連れて行っても、話しはできないだろう。」

「学園大に彼女を連れて来る、約束の日、静修短大まで迎えに行った。俺の愛車(マシン)でさ。短大生の溢れる道を抜けて、さっそうと学園大へ!
なにごともなく旭町までやって来た。だが、問題はそれからだった。
俺は学園大の駐車場の狭さをすっかり忘れていたのだった。学園構内はもちろん、周辺の路上まで、車はびっちりだ。

(中略)俺はついに決断を下した。「ちょっと歩くけど、いいかな」「……」彼女の答えのないままに、車を東急ストアの駐車場[1]に入れた。
東急の駐車場から歩いて九分、やっと学園大に着いた。

(中略)きれいな教員棟[2]の前を素通りして、学生玄関に向かう。
「うわぁー…」汚い、と言いたいんだろうが。当然の言葉だと思うぜ、短大と違って土足だしよ。男ばっかりだからな、昼下がりは大学全体に煙草の煙が充満するしよ。」

(1986年4月12日付『再刊』第35号内「新入生歓迎特集 こんな大学(がっこう)に来ちゃったぜ! 前編(ストーリー編)愛はまぼろし~ある学園大生の悲哀~」より[3])

 1994年10月、ついに現代の北海学園の最大のシンボルとなる地下鉄東豊線学園前駅、そしてそれに付随する大学6号館が完成[4]した。この前年には人文学部も設置され、本学における「現代」(もしくはコロナ禍まで続く「平成」)の幕が開けた。


●人文学部の誕生と女子学生数の増加、そして地下鉄


 「平成」の本学(と呼ばれることも少なくなった)は道民かつ国公立大学に落ちた人ばかりが通っているという根本的性質はそのままに、女子学生が激増し(それまでは「女子学生交流会」がたびたび開かれ教授たちはしばし女子大教員気分を満喫[5]していたとか)、文系学部が2から4に倍増し、そして地下鉄直結によって昼夜間学生の通学の利便性[6]を革命的に向上させるなど都心立地型中規模私大らしい大学に脱皮したと言えるだろう。

(その代わりに“学園生”は豊平の「学生街」(?)を顧慮しないようになり、もっぱらススキノへ繰り出すようになった。[7]体育会系学生が大学近くの岡田屋に溜まっていた時代は遠くなりにけり、だ。)


 人文学部開設以前の本学は「男子大」と呼ばれるほど女子学生の少ない大学であった。1985年度のⅠ部経済学部(経済・経営)の学生総数は2490人だが、そのうち女子学生は87人。たったの3%強だ。ちなみに同年度のⅠ部法学部(法律)の女子学生数は1209人中64人で5%強。現在でも「男子校」[8]扱いされることの多い工学部(土木工学[9]・建築)もこの年度は955人中20人で、ほぼ2%だから他学部と女子学生比率の大きな違いは存在しなかったほど本学の女子学生は少なかったのだ。

ただ、その代わりに大学のためのオピニオン/公論の土壌を喪失し、教養部の廃止などを通じて「全学」概念を体感する機会が減ってしまった個人主義と陳腐なイベンターの跋扈した時代でもあった。

 この時、地下には紀伊国屋の専門書店が開いたものの本学学生は専ら地下鉄を「便利な移動手段」としてのみ地下鉄を見ていたようで、これらの施設は地下ATM群を除けば、平成後期には全くと言ってよいほど利用されなくなってしまった。

 人文学部は開設時から現在まで一貫して日本文化学科と英米文化学科より構成されている。しかし、日本文化学科(以下日文)はさておき、「英米文化学科」というネーミングには疑問を感じずにいられない。この時既に冷戦が終結しており、新生ロシア連邦との交流も拡大[10]し、中国が台頭し、かつての英領であるものの「英米」とは言い切れないカナダのレスブリッジ大学との交流も継続し、理事長自ら音頭を取り内外モンゴルや華北地方と人材交流を深化させつつあった本学が今更「英米」のみの名を冠する学科を開設することに何らかの意義が果たしてあったのだろうか。

 何故このようなことになってしまったのだろうか。

 それは単に、日文学科をもって藤女子大学[11]文学部国文学科(当時)を、英米学科をもって北星学園大学文学部英文学科(とかつての藤女子大学文学部の同名学科)を志望校としているであろう女子学生を本学の誘引する策であるだけだったのではないだろうか。テレビコマーシャル(CM)のストーリーを男女学生の恋愛もの風にしてみたりと、この頃の本学は努めて「軟派」であろうとした節がある。

 だが、あまりあれこれ勝手な予想をしても仕方ないので当時の学生新聞(再刊第57号1993年1月19日付)の記事を(かなり長くなるが)引用しよう。流石は私が勝手に「全盛期」と認める時期の記事なだけはある。


 昭和五十七年十二月二十一日協議会の議決に基づき「新学部検討委員会」が各学部選出の八名(後藤、田中、藤原、山本、坂上、当麻、菱川、西沢)によって動き出した。この委員会が今日の「人文学部」開設への第一歩だった。この当時は学部の名称、内容も全く決まっていなかった。ではどのようにして今日の「人文学部」が誕生したということを様々な会議から浮上した学部の仮称を用いながら紹介していく。

①検討委員会による「文化社会学部」案

 さて、「新学部検討委員会」での中心議題は当然学部の具体化を進めることであったが、それ以前に解決しなければならない問題が二つあった。一つはこの頃文部省が「高等教育の計画整備に対する後期計画(昭和五十六年~六十一年)」の中で打ち出した私立大学拡充に対する抑制案への対応である。この中で文部省は特に札幌圏に対し①学生の実質増を伴わないもの②計画的な人材養成に係るもので特別の必要があるもの③小規模な改組拡充で当該専門分野の充実や社会の養成への対応のための特別な必要があるものーということを定義づけている。そのため学部、学科、カリキュラムの内容に他大学との差別化を図り独自の特色を表していくことなしには、新学部設置が困難であることが予想された

 そこで検討委員会は①教養部を母胎とし、その改組、拡充によるもの②新学部の専門課程と全学の教養課程を含む構成③札幌市内の大学と競合しないため人文学科を中心とした学部学科を作るーの三点を掲げた。特に③に関してはこの時期には札幌大学人文学部、札幌学院大学人文学部[12]も設置されていなかった。そこで検討委員会案として「文化社会学部」と名称を与えた。これは文化学科(比較文化・人間科学コース)、社会学科(社会学・情報科学・環境科学コース)の二学科五コースから構成されるもので定員約一五〇名とする計画が浮上した。二つめの問題は「校地[13]」に関してであった。

 図を見ると差引三五・六七四㎡の余裕があるが校舎敷地と運動場に分かれている場合は、校舎敷地に基準面積一四〇・八一四㎡の二分の一、七〇・四〇七㎡以上の校舎敷地面積が必要であり、現在の校地面積では四・九四一㎡しか上回っていない。そこで検討委員会は、清田運動場に新学部を作る考えを提案した。しかし清田運動場は市街化調整区域に編入されている。そのため、この解除を早急に求めていくことで委員会の考えはまとまった。

②教養部案による「人文社会学部」

 検討委員会案は「教養部を母胎」とした新学部案であったが、教養部の考えは多少異なっていた。教養案とは①学部教育と教養教育を同時進行させることは難しい②教員のノルマ増③検討委員会案の学科コースには情報、環境コースが入っているが社会科学に自然科学分野が入ることは無理がある④人文系学部は教養部と独立した方が逆に大学の目玉商品になる価値があるーというものだった。そこで教養部としては次のような学部学科構成をした。

③「将来構想委員会」案

 昭和六十年代に入り新学部計画は「将来構想委員会新学部作業部会」(部会長植木幹雄)に託された。作業部会では①今日の社会環境に対応し総合大学化に寄与するもの②国際化、情報化に対応するもの③量的拡大から質的充実への移行④札幌圏でユニークなものーという点から作業を進めた。その後昭和六十三年三月二十五日「人文学部」と名称を決め①国際関係学科②比較文化学科の二学科の名称を示した。しかし当時北海道東海大学において国際関係学科と同様の学部、学科を設立後、卒業生に与えられる学士号が「教養学士」になり作業部会が考えていた「文学士」とは異なっていたため[14]国際関係学科の名称変更を強いられた。そして昭和六十三年十二月十四日、日本文化学科と言語文化学科に決まった。

 この中で、中国語、中国語文化専攻が入っているが、カリキュラム編成、講師を模索していくうちに①将来的に学生が入学する見込みがあるか不安である②中国関係の学科は相応の講師がなかなか見つからないーなどの理由により、作業部会から引き継いだ「新学部実行委員会」は言語文化学科を変更し、英米文化学科に訂正することによって「人文学部」の原形が完成したのである。当初は平成二年度開設をめざしていたが、理事会と実行委員会の話し合いの中でⅡ部を同時申請した方がよいとの見解になり平成五年度開設の運びとなった。そして二月十一日、十二日の入学試験で人文学部第一期生が選抜される。


 何はともあれ都市(文系)中規模私大としての果実を手にした本学だが、この頃には独自のよさこいソーランチームを発足させ、北大関係者以外の教員を多く招き入れ、男子学生のガールフレンドも静修女子大[15]に頼らないなど、[16](本学で最も歴史のある学部の講義でよく聞く単語を用いるなら)「内発的発展」と「(経済的)自立」を果たしたのだ。このこと自体は大いに喜ぶべきであろう。

 

 しかしこの「自立」(学生人足の自給自足達成)こそが、かつての本学に見られた募債運動や新聞社や相手校の協力を得た某総合定期戦を(根本的には)不要なものとし、本学の文化や学生の気質をさらに内向的なものとした。昭和期を通じて本学と「同格」の大学がついぞ誕生しなかったこともまた「内向化」の根本的要因であろう。つまり本学には「北の慶應」にあたるライバル校が必要だったのだ。

 その後本学の対外的PRに関するリソースは(体育会系の定期戦と同様に)意義を再考するでもなく、ただ伝統として続けられている文化協議会による「地方公演」(地公)を除けば「教育サービス」の「客」(資金源)確保のために惜しみなく注がれるようになった。私はこの時代に学園の「マスプロ化」が成ったと考えている。


●十月祭実行委員会の組織化


かつて昭和40年代の大学紛争期について「クラスが前景化した時代」というようなニュアンスのことを書いた。そのため初稿時点ではサブタイトルは「“大学紛争”の時代④」ではなく「クラス・ストラグルⅢ」であった。クラスと“階級”(闘争)のダブルミーニングというわけだ。

 それはともかく、この時期の十月祭はその長い歴史の中では珍しいクラス出店の目立ったものとなっていたらしい。私のよく知る平成期の十月祭のようにサークル主体のものしか知らない学生にとっては(一応)全学生が参加しうる大学祭というものに違和感を覚えるのかもしれない。

 サークル主体の十月祭とは言い切れない時代には、その実行委員会もまた毎年人員を募集していた。ある意味では「レクバス実行委員会」などと同格であったとすら言える。

(1960年代にはリコールされた一部自治会(旧)執行部が十月祭の運営を取り仕切ることにより実質的な権威を維持する珍事も発生した)

 一応は「今年の十月祭はどうあるべきか」という問いから出発し、学びを還元するという形式が取られていた。なので理念を示すためのスローガンが毎年掲げられ(そして理念を忘れ皮相な形式だけが残った2019年には「令和っておもしれーわ」とかいう全く面白くないスローガンもどきが制定された)、クラス出店が歓迎された。しかし「全学」的な十月祭になればなるほど集団としての特質なきクラスは酒に頼るようになり、「居酒屋団地」が生協ホール(当時)内に形成されるようになった。

 これを回避するためには現代の十月祭のように各店舗の“専門性”を高めなくてはならない。そのためにはクラス出店は制限するくらいが丁度よいのだろうし、とにかく十月祭を成功させること自体を目的にした効率的組織運営が求められる。金集め、スポンサーとの関係維持。毎年々々一からやるわけにはいかないから十月祭を運営する(ノウハウを知る)専門スタッフが必要とされるわけだ。

 私たちが常日頃から学び、発信したいと願い、かつ祭のセンスもある人間にならない限りは「全学」性と専門性の二者択一となってしまう。そして団塊ジュニア世代による「昭和66年」というピークを越えてなお昭和中期より学生数は増えたままなので「全学的な取り組み」は困難になるから、当然のように十月祭は史実の「専門化」の途をたどった。

 こうして十月祭実行委員会は恒常サークル化した。その正確な時期は定かではない(情報提供求む)が、おそらくは「34年ぶり[17]」の自治会規約改定となった1995年の学生大会あたりのことではないだろうか。ちなみにこの学生大会では吹奏楽団の五団体入り、施設検討委員会(学生運動の産物だ)の廃止、規約改正の自治会会員の過半数の出席及び3分の2の賛成を必要とする条項の廃止(ちなみにこの大会自体の参加者は二百名程度だったため、正確にはこの規約改正は無効であったとも言える)などが決議された。

 学生も時にイベンターたることを要求される現代において、学生団体もまた組織としての強固なガバナンスや継続性を求められるようになった。もはや昭和中期のように学生団体がダンスパーティーを開けばなんとかなる時代ではない。このことを象徴するように、雑学研究会の一部メンバーが中心となって生まれ、現在は最も知名度の高い学生団体であるよさこいソーランチーム粋~IKI~の初期のようにNC北専や丸井今井と組んでみたり、外部の広告代理店や振付師に仕事を頼んでみたりしているようだ。



[1] 現在の東光ストア豊平店。今でも東光ストアの看板の「光」の字だけが妙に真新しく見えるのは気のせいではない。

[2] 豊平キャンパス4号館

[3] 「ストーリー編」という副題からも(ほとんど)明らかなように、あくまでこのくだりは寓話であろう。しかし、寓話であるが故に個別的・例外的でありえる事実よりも鋭く時代を表わしていると言える。

[4] ちなみに大学正門も約20m移動した。

[5] 『再刊』第38号(1986年12月8日付)内『今日はとっても女子大生―女子学生交歓夕食会―』より

[6] 夜間学生の通学手段は他大学でも重要視されていたようで、『札幌学院大学50年史 通史編』によれば札幌商科大学(現札幌学院大学)は「なお、第二部入学学生数の定員割れは、1985(昭和60)年度まで続いた。その開設時(引用者註:1977年)から、地下鉄東西線の白石駅と本学(引用者註:江別市文京台)との間を夜間通学バス(登校時・下校時各1便運行、同線の新さっぽろ駅までの延長に伴い1981年度末に廃止)で結ぶなど、様々な手段を講じ」たとか。ただし第二部は結局2003年に学生募集を停止してしまった。なお、2021年に札幌学院大学は地下鉄東西線新さっぽろ駅直近の地に「新札幌キャンパス」を開設した。

[7] 『まちかど探見 豊平⑤ 新しい芽 若者が集う姿夢見て』(2004年2月10日付北海道新聞朝刊第28面)より「豊平地区を歩くと、古い住民から「昔より学生の姿を見なくなった」と寂しがる声を聞く。(中略)便利になったのは確かだが「学生が地下鉄に吸い込まれ、街に繰り出さないわけだ。」

[8] 「男子校」という言い回し自体が、女子大自体が減少し、「男だらけの大学(「男子大」)」という概念自体が忘れ去られたこの時代らしさを秀逸に表現している。

[9] 2005年度から社会環境工学科。改名が受験者数の大幅な増加につながったとか。ちなみに2003年に早稲田大学理工学部土木工学科が同じく社会環境工学科に改名している。何だかんだ早稲田(俗称「南の北海学園」)との直接的な関係性の薄い本学の中でほとんど唯一の、本家早稲田をしっかり後追い(?)した事例である。

[10] そのロシア連邦が2022年現在ウクライナに侵攻しているのだから本学とロシアの縁も当分切れるか……いや、2014年以降ロシア人気の高まった本学だしどうだろう…。

[11] 令和の現在からは若干想像し難いが、昭和末期の藤女子大学は道内私大トップの偏差値を誇る名門校であった。参考までに代々木ゼミナール札幌校が作成した「‘83道内国公私立大、短大合格圏予想」(月刊ダン1982年11月号)を見てみると、道内私大トップ偏差値(合格可能性60%)は藤女子大文学部英文学科の56で、次いで同国文学科の55。その下に本学法学部(法律学科)と酪農学園大酪農学部獣医学科の50が並ぶという構図となっている。ちなみに北大文Ⅱの偏差値は53で、小樽商大商学部の偏差値はなんと48。これだと本学経済学部の47とほぼ同値だからにわかには信じ難い。『学報』第14号(1976年5月1日付)で山根対助教養部教授が「数年前、北大で紛争が起り、数か月にわたって授業もできない状態がつづいたことがあった。他人の不幸を奇貨とするわけではないが、私はその機会が北大に追いつき、追い越す絶好のチャンスと思い、勉学の体制を一段と強化するべきあると考えた。(中略)ところが、時の自治会執行部にはそのようなことは全く思いも寄らぬことであったらしい。学費問題をとらえて、大学は空前の混乱状態に陥った。追いつき、追いこすどころではない。ストライキがつづき、怠けるによいだけ怠けることになってしまった。(中略)私は、学生大衆の名をかりたその近視眼的発想と、非礼な言動に終始した当時の指導者たちを、現在でも許し難く思っている。」と恨み節を思いっきりぶちまけたのも全く故なきことでもなかったようだ。ちなみに一般学生がほとんど目を通さない学報では、たまにこのような学生に対する教員やOBからの苦言を見かけることがあるので、物好きは他の記事も探してみるとよいだろう。

[12] これは明確な誤りで、札幌商科大学(現札幌学院大学)人文学部は本学より17年早い1977年の開設。ちなみに開設時の学科は人間科学学科と英語英米文学科の2つ。

[13] ちなみに学校法人北海学園は豊平・山鼻・清田の他にも北見(北光235番地)・北見(校宅)(公園町13番地)・栄町(東区北36条東21丁目455番地)・大麻(江別市大麻晴美町10番)・北広島(仁別385番地)などの校地を所有しているが、それぞれ北見大学跡地・校宅跡地・学園大珠匣寮跡地・大麻住宅跡地・山林とほとんど利用価値のない土地ばかりである。ただし『北海学園百年史』によれば終戦直後に元陸軍将校を中心に北広島に農業学校を開設する謎多き案があったとか。

[14] 京大総合人間学部を卒業すると学士(総合人間学)になれる。総合人間になりたくばぜひ京大仮面浪人を。

[15] 『再刊』第35号(1986年4月12日付)内『新入生歓迎特集 こんな大学(がっこう)に来ちゃったぜ! 後半(解説編)大学を使い切るためのトラの巻』の「静修短大(清田四条一丁目)」の項には「学園生とカップルになるのが一番多いといわれる女子短大。藤・武蔵・北星の各短大は北大と札医大の独占市場などと、風評はとびかうが、要は本人の器量しだい。健闘を祈る。」と記されている。ちなみに現在の札幌国際大と本学の間には特にこれといった関係はない。

[16] 『七十年記念誌』の坂上孝幸元学長インタビューによれば「女子学生にも受け入れられやすい新学部を設置したいとする構想」が実を結んで開設されたのが人文学部である。


[17] 「自治会規約、34年ぶりに改正」(『再刊』第71号 1995年7月10日付)より

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