見出し画像

東京でも京都でもない「大阪の日本画」展◇大阪中之島美術館

大阪中之島美術館で開催された、開館1周年記念特別展「大阪の日本画」展 (後期:2023年2月28日〜4月2日)のレポートです。
※東京会場:東京ステーションギャラリー 2023年4月15日〜6月11日

今回は図録の解説などを元に自身の感想を交えて、まとめてみました。

その前に、初っ端からいいわけです。
今回の展覧会は全6章なのですが、13時半に見始めて気がつけば第4章の半ばで16時になっていました。(閉館17時)
あれれれ〜?おかしいな〜。時間は十分あったはずなんだけどな〜、、、ぁぁ。
なので第5・6章はほとんど駆け足です。

大阪の日本画

第1章 ひとを描く
第2章 文化を描く
第3章 新たなる山水を描く
第4章 文人画
第5章 船場派
第6章 新しい表現の探究と女性画家の飛躍

【展覧会のポイント】

明治から昭和前期の大阪の日本画
過去に類を見ない規模
・大阪の日本画家と聞かれて何人答えられる?
知られざる存在の大阪の日本画家
50名以上の画家を紹介
・近代の大阪で好まれた絵画をテーマ別に章立て
大阪近代の日本画BIG3
北野恒富(きたの つねとみ・人物画)、菅楯彦(すが たてひこ・風俗画)、矢野橋村(やの きょうそん・新南画)
・大阪の日本画の正統は文人画と船場(せんば)派
・大阪画壇はてんやわんや
・女性の教養としての日本画

大阪会場のメインビジュアルは北野恒富《宝恵籠》(ほえかご)昭和6年(大阪中之島美術館)。宝恵籠は西日本の神社周辺で行われる駕籠行列。初々しぃ舞妓さん。


で、大阪の日本画って?

北野恒富《鏡の前》大正4年(滋賀県立美術館)
※ポストカード 実物はもっともっと妖しげな美しさです!このような作風から「画壇の悪魔派」と言われたそう。


京都の日本画というと、日本画に興味がなくても「京都だから」でなんとなく説得力ありますよね。というか日本画=京都のイメージすらありそうです。

では、隣接している大阪はどうなのか。
全然、日本画のイメージが浮かんできません。

というのも、大阪では東京や京都と比べると画壇がなかなか発展しなかったのだそうです。
では古くから商業の町として発展してきた大阪では日本画文化が育たなかったのか?というと、そうでもなさそうです。

文化度も好奇心も強そうな大阪。だけど、東京や京都とは絵画に対する考え方の方向性がちょっと違いそうなのです。


大阪は縦の組織を作るのが苦手?

中村貞以(なかむら ていい)《失題》大正10年(大阪中之島美術館)※ポストカード 実物の着物の色はもっともっと綺麗な発色です!一度見たら忘れられない豊かな表情。

東京や京都では明治時代には美術学校ができて、上下関係がきっちりした縦割りの組織があったけれど、大阪は画塾スタイルが一般的だったそう。(これは東京・京都も学校ができるまでは同じ)

それは大阪では特に、文人画(南画)といった書画の方に馴染みがあったので、「画家の養成」ということに違和感を持ったから、という説もあるようです。
※文人画(南画)。文人の描く余技的な絵画。文人画は自ら娯しむものであって(自娯)、基本的に職業的に絵を売ることをしない。ただし日本での文人画とはその限りではない。

なので、○○絵画会のようなグループができてもなかなか定着せず、したとしても大阪の地から出ることがなかった。



大阪の日本画、浮いては沈み浮いては…沈チーン

矢野橋村の弟子・生田花朝(いくた かちょう)
《天神祭》昭和10年頃(大阪府立中之島図書館) 
お師匠の浪速の風俗画を受け継ぎつつ、色彩豊かな画風。ひとりひとりの人物がかわいい。

そんなこんなで、ようやく大正13年に大阪美術学校(私立というところもミソ)が開校。この時の校長が矢野橋村さん。大阪近代日本画のBIG3のうちのお1人。

京都府画学校(のちの京都市立芸術大学)が明治13年、東京美術学校(のちの東京藝術大学)が明治20年に創設したことを考えるとかなり遅いですね。

でも、昭和4年には拡大移転して、これで大阪の絵画界も発展・・・と思いきや。
戦争や世界恐慌などで大阪の経済力が低下
けいざいだいじ。ぶんかにけいざいだいじ。

そこで生き残ったのが大阪近代日本画のBIG3、北野恒富・菅楯彦・矢野橋村といった評価が高かった画家と、南画家(文人画家)たち。

この辺りから新しい時代の画家を目指す若者たちは、京都や東京に流れていくことに。
あぁ・・・

その反面、明治期に東京では衰退していった文人画が、大阪という地だからこそ残り続け、それによって多くの文人画家が全国から集まってきた、という側面もあるようです。それが第4章の様々な「文人画」が生み出された要因でもありそうです。


アッサリ・サッパリ・スマートに。あなたの床の間飾ります。(すべてはパトロン様のため)

床の間の演出。時間が無くなり、ゆっくり座ることも出来ず慌ててメモる。今の時代、床の間ってナニ?となる人もいるのでしょうか。我が家にはありました。掛け軸が掛かってるのを1度たりとも見たことはないですが。

図録の中に「大正十四年画家所得一覧」というのが引かれ画家とパトロンの関係を解説してくれているのですが、なんですかこの「画家所得一覧」て。

某米誌フォー○スが発表する長者番付みたいなものですか。(ちなみに2023年は某ルイ○ィトンCEOだそうです。某マ○ク氏は昨年の1位から陥落。以上すごくどうでもいい情報でした。)

この画家所得一覧からわかることが、なんだかんだいって大阪の画家の中にもそれなりの収入を得ている人がいたということ。
というのは上記のメモのような「床の間を飾るオシャな絵ぇ欲しいわぁ(妄想)」という裕福な層がいて、大阪の画家たちはその要求に応える教養と技量を持っていたから。
そうして絵画における大阪独特の需要と供給が確立したというわけです。

その裕福な層の床の間を飾ったのが、第5章の「船場派」

船場といえば、落語で「船場辺の若旦那さん(リスニング的には「せんばへんのわかだんさん」)」として出てくるものがありますが、言ってることもやってることも、おっとりしていて、裕福な商家のお坊ちゃんだなぁ〜という感じです。

そんなお坊ちゃんの家の床の間を飾っていたのでしょう(知らんけど)。


撮影タイム

第6章の最後には撮影してもいい作品が展示されていました。
あと5分くらいしかない!と
慌てて撮ったものです、、、

星加雪乃《初夏》昭和15年(大阪中之島美術館)
吉岡美枝《店頭の初夏》昭和14年(大阪中之島美術館)
当時はきっと最先端なファッションだった。今見ても上品。
吉岡美枝《ホタル》昭和14年(大阪中之島美術館)
高橋成薇(せいび)《秋立つ》昭和3年(大阪中之島美術館)
島成園(しま せいえん)《祭りのよそおい》大正2年(大阪中之島美術館)
Theお嬢様。このタイプはガチに真のお嬢様なので貧しい者にも優しく人として完璧なタイプ(妄想)
このお嬢様がちょっと意地悪するタイプ。でも大人になると誰よりも右端の子と仲良くなる人情派(妄想)
この悔しさをバネに勉強を無茶苦茶頑張って、上のお嬢様の後押しもあり将来留学する(妄想)


島成園は人物の表情描写がいいですね。
この作品もっとゆっくりみたかった・・・。


まとめ

第1章の「ひとを描く」では、全体的に今まで見てきた日本画とは少し違う感じを受けました。
それは北野恒富の描く人物が「画壇の悪魔派」と言われたように、妖しく退廃的な雰囲気を持っていたからかもしれません。
ただ当時は生々しい感じだったのかもしれませんが、現代の私たちから見ると美しいだけでなく、意志のある女性の姿のようにも見えて、むしろ自然なのものが多いのではないかと思いました。

第2章の「文化を描く」は、ともすれば退屈だな〜と思ってしまいそうな題材も、菅楯彦と弟子の生田花朝の作品を見るとその愛らしい人物やカラフルな色使い、リズミカルな構図が飽きることなく、当時の賑やかな雰囲気が伝わってくるようでした。
風俗画というと、洛中洛外図などで「人物が生き生きと描かれている」という解説を見ても、あまりピンときたことがなくて(多分見方が悪いのでしょうが)モヤッとすることが多かったのですが、この2人の風俗画はなんだかとても楽しげなものが多かったように思います。

第3章の「新たなる山水を描く」は、山水画知ってるけど分からんやつ〜、と毎回なります。そのため作品数が1番少なかったにも関わらず、どうやってみるんだろう?などと考えていたら時間がかかってしまいました。
そして、あ〜やっぱり分からんわ〜!と疲れて座った先に、大きな滝が目に入ってきたのです。それが矢野橋村《那智奉拝》昭和18年(大阪市立美術館)。
天井に届きそうなくらいとても大きな作品で、近寄ったり離れたりして見てはいたのですが、座った位置から見た目の高さと距離がなんとも絶妙でした。
上から当たった照明も相まって「あ、滝が流れてる」と自然と思い、とても神々しく見えたのでした。
多分疲れもあったのかもしれません笑
でも、作品のサイズ自体が大きいということはもちろんありましたが、山水画は題材がダイナミックなものが多いので、かなり遠くから見た方が作品に入り込めるのではないかと実感しました。
そういえば、「身体を悪くしたのでもう山には行けないけれど、山水画の中で遊ぶからいい」みたいなことを言っていた画家がいたような気がしますが、ちょっと気持ちがわかったかも?

第4章の「文人画」は瀟洒で中国趣味、どことなく洋画の雰囲気も感じられました。
先に「明治期に東京では衰退していった文人画が大阪という地だからこそ残り続け、多くの文人画家が全国から集まってきた」と述べましたが、明治初期は中央主導で西洋文化を取り入れることを推進していたので、ここではもうやれないな…と思った人達が来て、文人画が好まれる大阪の地でのびのびと描くことができたのかも知れません。
※江戸時代、都の玄関口でもあった大阪は様々な文物・煎茶など中国の文化が入りやすく受け入れられ中国趣味が流行。大阪では明治時代以降も文人画人気が続いた。

第5章は裕福な商家の床の間を飾る「船場派」。ザッとしか見られませんでしたが、思わず足を止めるような目立つ作品という感じではなくて、それは良くも悪くも差し障りのない絵が好まれた、ということかも知れません。
時間を気にして焦っていたので、逆にホンワカした作品はちょうど良かったかも。

第6章では、独自の美意識を育んできた保守的な大阪にも「新しい表現の探究と女性画家の飛躍」が訪れます。
大阪では女性画家が活躍する場があったらしいのですが、そういえば女性画家の作品をこんなにたくさん1度に見たことはなかったかも。

ひとつ気になる作品を最後に。

島成園《無題》大正7年(大阪市立美術館)
書きかけの作品の前に黒い着物を着た、顔にアザのある女性が床に座ってこちらを見ているような、、、。タイトルが《無題》というのも日本画にしては珍しい。
以下、成園の制作意図の言葉。

「痣のある女の運命を呪い世を呪う心持ちを描いた」


おわりに

今回は人物・風俗・南画などの分類での章立てでしたが、そこまでメジャーではないジャンルでこれだけの規模の作品に触れる場合、時系列よりも大きなカテゴリで見る方が受け入れやすいのかも知れないなと思いました。
どれもこれも見応えのあるものばかりで予想外に時間がかかりましたが、本当に見ることができて良かったと思います。


【参考文献】
大阪中之島美術館・東京ステーションギャラリー・毎日新聞社 編集,『大阪の日本画』,大阪中之島美術館・毎日新聞社,2023年1月21日発行
辻 惟雄 監修,『日本美術史』,美術出版社,2019年9月15日 増補新装 第18版

出てきたら入り口が見えた。もうどこをどう歩いたのか分からない。
表紙は北野恒富《紅葉狩(右隻)》大正7年
※右隻=左右に別れた屏風の右側
やっぱり分厚い。でも意外にお安い。図録3000円以下だと安く感じる麻痺状態。全作品の解説、作家解説、関係図、住んでいた場所の地図、用語解説、コラム、論考、ととても充実している。大阪の日本画が展覧会をしても中々広まらないのはなぜかという考察が興味深かった。


第4章の間にあった休憩スペース
菅楯彦《浪華三大橋緞帳》昭和32年頃(株式会社大阪美術倶楽部)大阪美術倶楽部で現在も使われている舞台緞帳。
天満橋
天神橋
難波橋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?