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フィルターをなくしシンプルな自分に

人から褒められる事が好きでした。

 自分が褒めてもらったことで、存在意義を感じることができたからだと思います。
一番小さな社会が家族だと言われます。両親、姉弟、親戚みんなのことが誇りで、尊敬していて、その人達から認めてもらいたい、好きでいてほしい、そんな思いがつよかったです。
尊敬し、好きなひとに認めてもらったら、自分のことも誇りに思えて尊い人間だと思えるだろうと思ったからです。

私の家族は一所懸命、忍耐、努力という言葉で例えられそうです。一生懸命ではなく、一所懸命。
「一か所の所領を,命にかけて生活の頼みとすること。」
何かを成し遂げることを目標として、その目標にむかってひたむきに努力することに価値をおいていたように感じます。

 幼い頃の習い事の練習では、母がいつもそばで見てくれていました。
 2個上の姉が取り組む姿は真面目で、お手本そのものでした。みんなに褒めてほしいけれど、私は姉並の努力をしつつげることができずに、劣等感をいだいていました。
 今振り返ると両親も、姉も親戚も私を認め、褒めてくれていました。
しかし、私自身がその言葉を受入れられませんでした。
自分自信が何物であるのかを分かっていなかったのです。自分自身を姉みたいになりたいとか、何物かになりたいというように、
外側に自分のなりたい自分を設定していました
【目標やビジョンを達成してこそ立派な人間になり得る】とおもっていたのです。

 姉は私にとって最も身近な存在であり、憧れでした。両親に認められていて、努力ができて、欲求や流行りに流されず、丁寧な時間を過ごし、人望にあつく、字も綺麗、ピアノも正確に譜面を読み、本が好き。
 姉と私とでは持って生まれた個性、性質、特性そもそも、違う人間なであって、得意な分野が違うのに、なぜだか同じ土俵に立ちたがりました。目の前にいる姉を羨ましい存在だと、決めつけていました。


 

私は、私を自信をもって自分が好きという人になりたかったんだとおもいます。

 憧れは、いつしか、負けん気に変わっていきました。負けるより勝つことが好きになりました。
勝ったとしてもいつしか負けが訪れ、一生満たされ続けられるものではありません。次第に、何かができる私だから好きとか、人より勝ったなにかがあるから好きということでないことに気付き始めました。
 何かの欲を満たしても、また他の欲が湧いてくるように自分の好きな所を探し続けてもきりがないのです。
姉のようになりたくても、姉に取って代わることができないように、求め続けても叶わない。叶ったとしても次の何かを欲してしまいます。

 

私は、私を尊いと思えるための理由を探す

、自分探しにやっきになっていきました。私という中心軸となる本体はぼやけていているけれど、ぼやけた本体から意識矢印が四方八方に向いていました。
 足りない物を探して、矢印の向けていない方向があったら焦り不安になり、新な矢を放ちます。あれやこれや矢を放ったり、その矢を太くすることや、的を探したり、的に当てることを頑張っていたけれど、その本体の自分のシルエットや、矢を放つ手元はうつろで、おぼろげでした。いくら放っていても満たされない自分に、ではどうやって自分を満たしていこうか考えました。

 

何かのタイミングで自分とはどんな人間なのか探る時があります。

私らしさって何か?一体私が何物なのか?
そんなとき、自問で最後まで辿り着かず、私ってどんな人と思われているんだろ?と周りから自分がどう見られているかにベクトルが向きました
両親からは「明るく、気がきく。」旦那さんから「甘えん坊で、頑張り屋」友達からは、「面白くて、優しい」こんな風に思われていそうだなぁと。
一貫性がなく、色んな自分がいることに対して不満でした。どれが本当の自分なのかわからず、腹が立ったりもしたけど、短所も裏返せば長所になります。
否定し続け辛くならないように、変幻自在、臨機応変に対応できる!と、短所を長所に換えて捉えるようにしていきました。
素直と言えば長所に、単純というと短所になりますが、他己分析の結果を踏まえて
「なるほど、なるほど、私ってそういう人なのですね。そう思われてるなら、それが私なのでしょう。」
と受入れていました。
 「気が利くね。」と言われると嬉しくて、それが私の長所だと自覚して気を利かせることに励んできました。作り込んで、研磨していくという感じです。
でも、この行為は最終的に自分で自分の首を締めることになりました。
優しい自分でいたい。相手を傷つけたくない。でも裏を返すと自分を守る為だったのかもしれない。

 子どもの頃、八方美人という言葉を聞いて、ヒヤっとしました。最近では忖度という言葉を聞いたとき、また再びドキっとしました。そもそも、忖度とは「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。」ネガティブな意味合いはないようですが、最近ではネガティブな意味合いで使われていることが多いです。私自身が人から否定されたくないと思うほうなので、なるべく人を否定したくないとおもっていました。
相手を思って相手の為に、なるべく不快ではなく喜ぶ言葉を選択したい。
本当の自分の気持ちを伝える前に、私の価値観のフィルターを通して私が想像する相手が求めているであろう言葉を投げかけていました。私の言葉は、私が考える範囲で相手を慮った発言で、私の本当の思いではなくなっていました。
本来の私の気持ちが分からなくなってしまったのです

 

外側に向けていた矢印はいびつな形をしていました。

内側に矢印を向けて自分を見つめていくと、矢を射るクリアな私の輪郭が浮かぶかとおもっていましたがそうではなかったです。その境界線は点ではなかったのです。
 内側と外側。家の内と外、壁があって窓があって境界線があるように思われますが、寺の縁側に座ったとき、内と外を繫ぐ、はっきりとしないぼんやりした領域の縁に座り日向ぼっこをするとホっとしました。
 黒か白かその境界線を引くことを探究するのでなかったのです。家の中から外にばかり意識をむけていたら目下の縁側の存在もきづけないとおもいます。
 内も外も、縁側も全部私で、そんな自分でいられている今の自分にとてもホっとして、安心しています

誰かに好きでいてほしという欲求も穏やかになりました。


How are You?
反射的に、
Fine Thank you and you?
言っていましたが、本当にfineであるのか?じっくり間をおいて自分に問いていきたいとおもっています。


人からどうみられているかの表面的な2Dの自分ではなく、自分の核からでてきた奥行のある3Dの自分からの発言をしていこうとおもっています。

今までの私の行いもけっして嘘ではなかったけれど、
もっともっとシンプルに。
フィルターをなくしシンプルな自分になりたいとおもいます。

自分のことを好きになりたい!とおもいながら存在している。それだけで、そう考えている魂や、肉体が有難く、素晴らしい存在なんですね。


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