孤愁の6月
もうじき夏休みが来る。
私に、ではない。
夏休みと言うと嬉しい感じがするがそれだけではないことも知っている。
宿題が出る。
その中でも最も困った宿題が、カレンダーを渡されての自己記録であろうか。しかし今日では過去の天候はインターネットで簡単に調べられるので若干楽になったのかも。
夏休みに宿題を出すというのは、おそらく家に長くいる事によって学校で培われた習慣が途絶えてしまうので、それを防ぐのが目的だろうと考える。しかしそう気付いたのは最近の事で、そもそも夏に宿題が出るということ自体忘れてしまっていた。
しかし中学校の時に出された読書感想文の宿題ほど困惑させるのもない。どういう発想か全く判らないが、1年時2年時ともなぜか夏目漱石を読ませるのである。しかも1年時は『坊っちゃん』、2年時は『吾輩は猫である』と決まっていた。枚数指定もちゃんとある。
無理だろ。
そもそも読書と言うのは個人の楽しみのための行為だから、課題として出すのはどうかな。そしてこの二つの本は、明治時代の常識で書かれている以上、令和はおろか昭和末の少年少女でさえ難解なものだ。
かといって筒井康隆の『時をかける少女』も決して容易に読めるとは思えない。であるのに赤川次郎の『三毛猫ホームズ』シリーズなんか持ち出してきたものなら嘲笑する質の悪い教師も中学校に必ず一人は、居る。
もちろん町田康は止した方が良い(面白かったでは埋められない!)
さてなぜ今夏休みの課題の話をしたかと言うと、私が久々に夏目漱石を読んだから。
『硝子戸の中』という薄い本です。
小説ではありません、随筆です。
今の自己紹介欄に貼付したのはその最後のくだり。
最晩年に書かれたもので、円熟の極みにあるという感じですがそうとも言えない。なぜなら漱石の晩年は大病に煩わされた日々で、いくら人気作家であっても休載が続けば愛読者は困惑しまた新たに現れる新進気鋭の作家たちに自らの存在は段々空気になっていくし編集者からも愛想を尽かされる。そうなると漱石のような専業作家では生活が覚束なくなっていく。
焦りと諦観の心の中にあってその実力が発揮される?
わからない。
個人的には読了後拍子抜けしたような感じがした。
漱石などの明治の文豪の作品を読むにあたって困惑させられるのは巻末の註とあとがきだろう。註をいちいち拾って読むのは読書の流れを停頓させられる。あとがきも文学者によるものが多く、ものによっては読んでいるうちに白けてしまう。
ところが新潮文庫版のあとがきは「孤愁」という言葉で締めくくる。この言葉が自分には思い浮かばない。昨今流行りの「ぼっち」では表現できない何かがある。孤愁の中にあった漱石の心境。
多分今の自分にも共有できるのかもしれない。
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