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2年だなんて、ほとんど永遠ね。【第4話】


瓜生島


 父の実家は四国の山の中にあって、昔から農業してて、豆腐づくりで有名な家だった。母も同じ地区に住んでて、小さな頃からお互い知ってたって。やがて年頃になって、お互いに、好き、が、愛に育ったんだけど、父の家は名家。母のお父さんはあの戦争で亡くなってて、暮らしむきは大変だったらしいわ。田舎らしく、家柄が違うとかで、ふたりの恋愛は反対されたんだけど、反対された若者たちって、燃え上がるよね。18になったばかりのふたりは、駆け落ちしたのよ。だからお母さんには、私たちが駆け落ちしようとしてたのがわかったのかもしれない。今はそう思うの。
 駆け落ちしたふたりは瀬戸内海を渡って、最初は山口の小さな島で、なんとか生活していたって。父と同じ職場の人が、もっと稼げる仕事を大分にみつけたっていうので、紹介してもらって大分へ渡ったの。その、あてにしていた仕事は、肉体労働で大変だったらしいわ。それでも、もともと学校の勉強が得意だった父は、日雇いの支払いの計算や、スケジュール調整、資材の手配とかで重宝がられるようになって、自分でも勉強して資格をとって、ようやくちゃんとした家で暮らせるようになったって。
「お父さんが、ちゃんと学校行って勉強しとけ、ってよくいう理由はそういうことよ」
 と、母が話してくれたわ。
 実家を出たふたりは、その後ずっと帰る事はなかった。実家からすれば「勘当」よね。私が生まれた時、ハガキは送ったって。自分が親になって、両親の心中がわかるようになったと思う、って、母が言ってた。
 わたしが3才になるときに、実家から着物が送られて来たんだって。手紙もなく。のしには「祝」とだけあったそうよ。小学校入学、中学、高校、と、節目に、やはり「祝」とのしがついたお祝いが送られてきたって。
 お父さんが倒れて、もうどうしようもなくなって、お母さんが四国の実家に電話したの。家業は父の弟さんが継いでた。両親ともご健在で、母からの電話を黙って聞いてて、すぐに戻ってこい、って、言ってくれたの。三日後には、弟さんが職場の若い人を連れて、私たちの家に来たわ。お父さんを、四国まで連れて行く手配と、引越しの準備をしてくれたの。私は、ずっと学校を休んでいたんだけど、転校のための準備があるといって、もちろん、タツヤに会うために学校に行ったわ。お母さんも、その事には気がついていたけど、何も言わなかった。久しぶりに行った学校で、私の隣りの席にあなたはいなかった。同級生から、あなたは家出して、一週間後に繁華街にいるところを補導されて、今は停学中だって聞かされた。その時立っていた私は、ペタリと床に座り込んで、両手で顔を覆って、大きな声で泣いたわ。いつまでも。今もまだ、泣き続けてるんだと思う。ごめんね、タツヤ。タツヤ。
 タツヤ、四国の山の中って、行ったことある?なかなかすごいところよ。私たちがイメージする、昔の田園風景、っていったら、少し想像できるかしら。お父さんを傷つけ、タツヤを傷つけ、でも、お母さんは私を責めないし、私は今からどうすればいいのか、何も考えられずに過ごしていた。そんな私に、全く気にもせず接してくれたのは、稲を揺らす風、笑っちゃうほど大きいかえるの声、水があることを忘れるほど透き通った川。川の流れる音って、私大好き。こぽこぽこぽって、少しずつ変わっていって。ずっと聞いていられる。あれほど嫌いだった名前さえ知らない木より、ずっとずっと多くの木があるんだけど、全然いやじゃなかった。あの時の私を救ってくれたのは、あの場所、そして、いつか必ずタツヤと再会する、という想い、だったの。タツヤ。
 お父さんは少しずつ回復して、お母さんは昔の同級生の仕事を手伝ったり、実家のお豆腐屋さんを手伝ったり。私は、家から1時間くらいのところにある高校に通っていたけど、部活に入るわけでもなく、友達を作る気もおきず、通学のバス停ではいつもひとりだった。今だったら携帯とか使って、なんとかタツヤに連絡取ったり出来たんだろうけどね。学校が休みの時は、小川に沿って上流へひとりで歩いて、小さな橋に腰掛けて、タツヤへ手紙を書いてた。手紙は、何度か出したんだよ。読んでくれたか分からないけど。そうやって、タツヤとの繋がりをたどれないまま、私は高校3年になった。その頃には、父は歩けるようになってたし、会話も何とか出来るまでには、回復してた。その父が、
「自分は出来なかったけど、かごめには大学へ行ってほしい」
 と、不自由な声で、何度も言い直しながら私にいうのよ。何度も。もう私には、自由にさせて、と、いう事は出来なかったわ。自宅から通える場所には大学はなくって、家を出て独り暮らしするしかなったんだけど、お父さんの事が気にかかるし、結局自宅から出来るだけ近い学校を選んだの。大学でも、部活には入らず、特に友達は作らず、時間があれば図書館でひとり本を読んでた。その頃、タツヤはどこで何をしてたのかしら。私は、週末アルバイト、月に一度は家に帰る、その繰り返しだった。何度も大分へ行こうと思った。ほんとよ。そのためのアルバイトだったし。でも、大分は日帰り出来る距離じゃないし、大分へ行ったことが母に知られるのが何より怖かったの。私たちの駆け落ちを見抜いた母だもの。父の事を考えると、心配はかけたくなかった。
 そうだ。わたし、図書館で全国の郷土史全集を見つけて、大分篇を手に取った事があるの。大学の図書館なんて、ほとんど人いないんだけど、それでも端っこの方に行って、他の人がいない場所でその本をゆっくり読んだ。タツヤ覚えてる?瓜生島伝説。昔、別府湾には瓜生島という島があって栄えてたんだけど、大地震の時に一夜にして沈んでしまった、という話ね。アトランティス大陸みたいだって、あなた無邪気に話してくれたわ。
 小学校の図書館でも、地元に伝わる話、言い伝え、で、読んだことがあった。島を守っているお地蔵さんの顔が赤くなったら、天変地異が起こる、という言い伝えがあったんだけど、誰かがいたずらでそのお地蔵さんの顔を赤く塗るのね。島の人たちは大騒ぎ。いたずらした人は、それをみてわらっていたそうだけど、その夜、本当に大地震と津波が島をおそった、という話。それを読んだ時、とても怖かったわ。
 伝説として扱われてて、実際はそんな島なかったんだ、と、話す人も多かったけど、元々瓜生島にあったお寺が、島が沈んだために大分市内に再建された、といわれてて、そのお寺までふたりで行った事もあったわよね。覚えてる?お寺から駅までの帰り道、やっぱり瓜生島はあったんだ、って、レモン味のアイスを食べながら歩いたこと。それと、別府市内には、昔の津波が押し寄せた場所の碑文があるって聞いて、あなたわざわざ途中駅の別府で降りて、探し回ったって、言ってたわよね。あれって結局、碑文、見つけたんだったっけ?どうだったっけ?
 あぁ、どうしても思い出せない事もあるんだ。くやしい。さびしい。
 あの、ふたりでよく過ごした海岸。防波堤に腰掛けてる時、テトラポッドの向こうの海底が、光の加減でいつもよりよく見えて、そこに、二列に並ぶ朽ちた木の杭があった事、覚えてる?あれを見つけた時、ふたりで息をのんだわよね。この先に、瓜生島が眠っているんじゃないかって。今思うと、どうして誰も気がつかないんだろう。ふたりにしか見えてなかったのかなあ、って、本をめくる手をとめて思ったわ。あの時はいつでもまた杭を見られると思ってた。今思う。ふたりの海岸へ、ふたりで行かないと、木の杭は現れないんだわきっと。また見たい。今度はその杭の先に、ふたりで行きたい。タツヤ。

つづく。



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