ドーナツホール

 みなさまはもう聴かれたであろうか


 我らが「ハチ」が、令和に帰ってきた。喜ばしや。


 世間一般的には、「米津玄師」のほうが有名なのだろうが、中学時代をボカロに救われた身としては、「ハチ」であり「米津玄師」であり、その二つはぴったりと重なる影でありながら、全く別の存在でもある。わけわからんこと言ってごめんなさい。


 私がドーナツホールに出会ったのは、中学一年生のころだったろうか。その時はまだこちらのミュージックビデオしかこの世に存在していなかった。



 彼が生み出す楽曲はどれも聴けば聴くほど旨味が出てきてやみつきになるスルメ曲ばかりなのだが、当時思春期真っ只中の私は、特にこの曲に魅せられ、狂ったようにリピートしていた。多分百回は聴いたと思う。

 思春期特有の孤独感、無力感にさいなまれていた私は、この曲のもつどこか乾いたような、突き放すような、けれど手を差し伸べられているような、そんな不思議な魅力にどっぷりとつかっていた。


 GUMIの無機質で少しざらついたボーカルが、もやもやした心にすっと入ってきたというか。この曲にハマるきっかけになったのは、間違いなくこの声だと思う。

 ボーカロイドは、それを扱うプロデューサーによってだいぶ雰囲気が変わるのだが、ハチが作り出す無骨な機械感がたまらなく好きで、この曲はそれをもっとも味わえる楽曲だと思っている。


 MVに出てくる四人のボーカロイドたち 初音ミク、巡音ルカ、鏡音リン、そしてGUMIも、どこかうつろな目をしていて、良い意味で温度感を感じさせないビデオの構成も雰囲気にドンピシャで、当時の私はこんな表現があるのか…と半分怯えていたのを思い出した。


 この50秒目から始まる、『何も知らないままでいるのが あなたを傷つけてはしないか それで今も眠れないのを あなたが知れば笑うだろうか』のところ。横たわったボーカロイドたちと、背景の白がずれる描写が、歌詞の『あなた』とのすれ違い、距離感を表しているようでなんとも切ない。「ボカロ」というキャラが引き立たせる無機質なイメージが、乾いてざらざらとした胸の内とうまくリンクしていて、すごく好きなシーンだ。

 そして歌詞の哲学。
『ドーナツの穴みたいにさ 穴を穴だけ切り取れないように あなたが本当にあること 決して証明できはしないんだな』

 この曲の持つ寂しさというか虚しさは、この歌詞に集約されると思う。

 ドーナツの「穴」があなたであり、「ドーナツ」は、その人と一緒に過ごした日々、思い出、その人が話した言葉、しぐさ、表情、そういうものが当てはまるのだろうか。

 確かに、私たちが「あなた」に思いを巡らすとき、記憶の中に存在する、五感を通して感じた「あなた」の要素が必要になる。その要素抜きにしては、「あなた」のことを思い浮かべることができない。

 それは決して「あなた」そのものではない。つまり記憶が薄れればそれだけ「あなた」も薄れていくということ。


 小学生の時、人間の身体は「ドーナツ」である、という文章を、子供向けの科学本かなんかで読んだことがあった。人体は口から肛門まで一本の管で繋がっている。だから、胃や小腸、大腸は体の中ではなく、外である、という風なことを言っていた気がする。つまり、ドーナツと同じ。ドーナツの穴はドーナツの「内部」ではなく「外部」であると。

 初めて聴いた時にこの話を思い出して、不思議な気持ちになった。「穴」はあなたであり「ドーナツ」自体もあなたである、という図が浮かんできて、そのお菓子の輪のように私たちは一つで完結した存在なのかもしれない、と思った。輪が巡っても、結局たどり着くのは自分で、ぐるぐる、ぐるぐる、ずっと同じ線をたどって終わりを迎える。

 でも私たちは『レールのいらない』存在でもある。「私」という個人は、自分のしっぽを追いかけまわす犬のようにぐるぐる一人で回り続けていて、これが天体でいう「自転」であるなら、「公転」のレールは存在しないということなのだろうか。銀河系の惑星は秩序を保って、それぞれの軌道を回っているけれど、私たちにそれはない。自由なのか孤独なのか。自由と孤独は紙一重なのだろう…。


 そして、先ほど挙げた「ドーナツの穴」に呼応するように、『この胸に空いた穴が今 あなたを確かめるただ一つの証明』という歌詞が続く。「あなた」といた日々の記憶が無くなっても、その消失こそが証明である、という、見方によっては希望があるような、でもとても寂しい言葉だ。『それでも僕は虚しくて 心が千切れそうだどうしようもないまんま』という悲痛な叫びから分かるように、その穴を抱えたまま歩み続けるのはどんなに辛いことだろう。

 この場合、その穴は私の内部なのか外部なのか。穴を穴だけ切り取れない、だからあなたが「あった」という証明はできても、あなたそのものの証明ではない。

 『あなたの名前は』という問いかけでこの曲は終わる。突然幕が下ろされたように。輪がぶつりと断ち切られるように。


 人生には、生、老、病、死の四つの苦しみがあると言われている。老いること、病にかかること、死ぬこと、この3つは、「消失」に関わる苦しみではないだろうか。

 人生の春を失い、健康な肉体や精神を失い、最後にすべてを失う。そして、生まれ来ることは、その喪失を生み出すという点において、「消失」に関わっているのかもしれない。

 生きている限り、別れからは逃れられない。どんなに虚しくても人生は続いていくし、どんなに生きたくても終わりが来る。


 『バイバイもう永遠に 会えないね』
 シンプルだけれど、とても深刻な言葉だと思う。この先もう二度と会えなくなる「別れ」というのはそこら中に転がっていて、タチの悪いことに、「ほんの一瞬の別れ」という顔をして、私たちに近づいてくるときもある。

 永遠の別れと知って告げる別れも、そうでないと思っていて、あとから振り返ってわかる永遠の別れも、どちらも複雑な悲しみを持っている。それでもなお私たちは、生きていかなければならない。時には、そういう悲しみを無かったことにしてでも生きていかなければならない。


 そのどうしようもなさ、ある意味での冷たさのようなものが、この曲で表現されていると思う。中学生というのは一般的にもいろいろ大変な時期で、身体と心の変化に惑い、世の中の「真実」が少しずつ具体性をもって目の前にあらわれはじめ、社会の中で自分がどういう立ち位置にあるのかぼんやりと分かり始める、いわゆる「過渡期」であって、それについていけるかいけないかとか、周りと比べて早い遅い、という些細なことが気になって仕方のない時期なのだと今振り返って思う。

 それは未来への遭遇でありながら、何も知らなかった過去への別れであり、幼い自分の喪失でもある。様々な事象が目の前を高速で通り過ぎていく。そういった時期のひりついた心に寄り添ってくれたのが、このドーナツホールなのだ。


 ここからはただの厄介オタクの独り言だが、昔のあの無機質なMVだからこそ、この曲の乾燥した虚しさが引き立つのだと思う。今作の、治安の悪い4人組も大変ぶっ刺さるのだが、やはり個人的には、昔のほうが…などと思うのである。


 私はまだ19だけれど、年をとると新しいものを受け付けなくなる、というのは本当だと思う。受け付けなくなる、というより、かつて愛したものに対する執着が年々増してしまうのだろう。柔らかい脳みそをもった大人になるのが目標だけれど、やっぱり譲れない部分もあって…。なかなか難しい。


 でも、確かに言えるのは、こうやってリメイクされることで、新しい層に広まる可能性が高くなり、それは非常に素晴らしい、ということである。かつての私のように、この曲に救われる人が増えればいいなあ、と思う。


 それでは、この辺で、さようなら。



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