この時代に"きちんと暮らす"こと
半年ぶりに、母の実家に帰省してきた。祖父母は少し離れた地に住んでいる。今回の帰省(私にとっては、祖父母の家に行くと言った感覚だが)は私1人でやってきた。
久しぶりの帰省。こっちで暮らしてみて気づくのは、やはり自分のだらしなさ。鈍さ、とでも言えるだろうか。きちんと暮らしいる祖父母の姿を見ると反省すべき点が多い。
人ととして当たり前のことなのかもしれないが、朝早く起きること、きちんと朝食を取ること、洗濯物をきちんと伸ばして、裏返して干すこと、花を愛でること、野菜をおいしく摂取すること、季節の果物をいただくこと、本を読むこと、長時間の移動も厭わず人に会うこと、きちんとした服を着ること、そして一つの食卓をみんなで囲んで美味しいご飯をいただくこと。こっちの家では、ごくごく当たり前の日常。だけど、自分の実家では滅多にないことだ。家は常に散らかり、朝起きてくるのはバラバラ、適当に朝ごはんをすませ、片付ける暇もないままにバタバタと家を出ていく。家族揃ってのご飯なんて、何年ぶりにしただろうと、夏の帰省で思ったものだ。癒しの愛犬たちが、いなければ私たち家族はとっくに終わっていたのでは?と思うこともあるくらい。まあ、実家は実家でそのゆるゆるさが好きだったりもするのだけど。
最近では、よく”タイパ”と言う言葉を耳にする。タイムパフォーマンス、つまり”時間対効果”のことである。動画は2倍速、本は読まずに解説を見る、ご飯はパックごはんで済ませる。そんな暮らしを好むものが、どんどん増えている。生き馬の目を抜くようなスピードで変化し、過ぎていく現代には重要になってくる考え方なのかもしれない。でもそういった生き方をしている人を見ていつも思う。何か失っていないか、効率を重視した結果、省かれてしまった無駄に何かもっと大切な意味があったんじゃないか。上手く生きられない僻みだと言われてしまったら、そうかもしれない。それでも、私はその”無駄”に”価値”があったはずだと信じて疑わない。
これが、ただの妄想でないと確信できるのは、やはり祖父母の暮らし方である。手紙を出し、本を書い、図書館に出向いて、花を愛で、新聞紙でニュースをすみ瑞まで見て遠い国の人を思い胸を痛め、紙の地図を開き、路面電車やバスで移動しする。その一つ一つに物語があり、語れるもの記憶に残るものがある。それがやっぱり美しいと思う。大切にしたいと思う。これを今の私が、全て真似できるかというと絶対にできないが、過程を大切にし記憶に残るような生き方は私にもできるはずだ。
無駄を排除し、より効率的に生きることを求められる今だからこそ、少しでも自分らしさを残すため、これからも”無駄を愛していきたい”と思う。
”NO 無駄 NO LIFE”
以上、無駄を愛し、無駄に愛された女”いたん”がお送りしました。
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