普通のひと
諦めかけていたプランを何とか会社に通し
その晩はすごくぐっすり眠れた。
そのプランの一歩目を踏み出そうとして
沢山のスタッフが苦しんでいた。
今までずっとそこは、絵に描かれたドアで
本当に開くなんて思わなかった。
機が熟す、というのだろうか。
今より早くても遅くても、駄目だったろう。
わたしにしてあげられることは
「普通のこと」だけなのだ。
俳優をやっていた時もそれは変わらなかった。
主役だなんだと盛り立ててもらった時も
それは自分が他の誰よりも
「普通」だから得られるチケットだと
知っていた。
人は「特異」であろうとする。
「人気者」であろうとするし
時には「異端」であろうとする。
それは面白く生きるために
当たり前の本能だと思う。
わたしはその本能が希薄なのだ。
「自我」というものが形成されるはずの
時期に、何があったわけでもないのに
未完成のまま放置されてしまったようなのだ。
「自我」が完結していないので
「自己プロデュース」が成り立たない。
こうしたいああしたいという
良い意味での我欲が成り立ちようがないのだ。
自分のことはまるでわからないし
そのことで特に困ったこともない。
そこに興味関心の比重がないのだ。
それがかえって目立つ。
たったそれだけの理由で
わたしは様々なチャンスを頂いて生きてきた。
ジブリ映画の「カオナシ」や「コダマ」
あるいは「まっくろくろすけ」のように。
存在としての自分。
背景としての自分。
風が吹いたり、誰かに呼びかけられた時だけ
音が鳴る何か。
それが、わたしだ。
この年齢になって、それを利用し
展開してゆくことが少しずつ
出来るようになってきたと思う。
物語は、大きな声のナレーションが
どんなにねじ曲げようとしても
進みたいように進んでいくものだ。
その方向性を変えたいのならば
自ら背景のひとつになり
物語の進みたい方向を共に感じ、共に動く。
そうしてはじめて、ストーリーは
少しずつ変化を見せはじめる。
わたしは「普通のひと」であるので
「忍耐」が肝心だ。
気を長く持ち、人々の歩みを待ち
なおかつ自分自身の成長も待つこと。
扉が開くタイミングは
人間であるわたしではなく
大きな誰かの気まぐれによって
決まるのだから。
未完成の自我のまま
ゆらりゆらりと不安定に生きてきた
そんな私だから
皆よりもぼんやりひとつところに留まり
あらゆる邪悪や忖度を
コダマが旅人を見つめるように
見続けられるのかもしれないのだ。
わたしは、未完成で不安定な
こんな自分で、だから良かったと思う。
みんなの役に立つ
良い背景でありたいと願う。
ああ。それがもしかしたら
やっと生まれたわたしの
我欲なのかもしれない。
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