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純粋

わたしはかつて手酷い裏切りを受けた。
それはとても深い傷で
しばらくは息をすることも出来なかった。
本当に長い、永遠とも思える数年を経て
わたしは人に助けられ回復した。

あの頃はこうして、そのことに
言及しようなどと思わなかった。
それほどに致命的なことだったのだ。
傷を負うと同時に
わたしは夢と天職も失った。

ああ。
人生とはなんて、残酷なものだろう。
過酷な労働と貧乏と
創造性の中で自分をどこまでも追いつめ
恋愛や趣味や安定や
そんなもの全てを投げ売って
その果てに
「純粋」だけを求めた。
それはそれは激しく。強く。

わたしが負った傷は
その「純粋」が
すべて嘘だったという傷だった。

足元をすくわれるどころではなかった。
あのとき、わたしは
どちらが地面でどちらが天井なのかすら
わからなくなっていた。

今どうして、そんな過去のことを
書いているかといえば。

わたしの大切な人が
またその「純粋さ」ゆえに
苦しむ様を見ているからだ。

わたしはあの日以来はじめて
自分に傷があってよかったと思う。
いじめられたり
騙されたりしてきて、よかったと思う。

やればいい。
続ければいい。
わたしもわたしの大切な人のことも
いじめ、騙し
奪って、笑い続ければいい。

世界中に、そういうことを
続けている人たちがいるのだ。
戦争をしかけるのと
人をいじめるのは
同じことだ。

そういう人間は、いなくならない。
世界のどこにでもいる。
泣きたいほど善い人がいるのと同じように
存在することを消すことは
決して出来ない。

ヒールとベビーフェイスである。

彼らがパイプ椅子や有刺鉄線を用いたとしても
驚いてはいけない。
ヒールなのだから、仕方ないのだ。

本物のプロレスラーの方は
ヒールの方も皆とても人格者だと思うけれど。

でも、ある考え方のモデルを
いつもプロレスは教えてくれる。

観客が望むことは
面白い試合をして、そして
願わくばベビーフェイスが勝つことであろう。

わたしたちは、正義の側なのだ。
世間では、それを弱者と呼ぶ。

それでも、プロレスのリングで
待望されているのは
正義の、努力の、志の
勝利ではないのか。

演劇も同じである。
執念と、愛と、理想の勝利。
それこそが、芸術だ。

「純粋」を求める我々は
パイプ椅子や有刺鉄線に勝てるのだろうか。
わからない。
血まみれになって、全く歯が立たないのかもしれない。

でも、わたしたちは
「純粋」と共にある。
たとえ、倒れても。
共倒れ、である。

それを、勝利と呼ばずして
何を勝利と呼ぶのか。

本音を言おう。
気が狂っていると思われてもかまわない。

あの時、わたしは
自分が勝つために
演劇を辞めたのだ。

確信犯だった。
傷は負ったし、芝居が出来なくて辛かったけれど
判断は正しかった。
わたしは今、福祉の現場で
やりたかったことを全て出来ている。

それはあの時
「純粋」と対峙してきた
自身の矜持を
捨てなかったからだ。

捨てそうだった。
芝居が好きで好きでたまらなかったから。
人生に他に何もいらなかったから。

それでも、正義は
曲げられなかった。
泣きながら、わたしは
自身の天職を捨てた。

正義を捨てた時
人間は人間をやめる。
わたしはそう思う。

世界中のベビーフェイスたちよ。
あなたがいるから
世界はこんなに明るくて
笑いに満ちていて
明日に希望があるのです。

わたしはそれを知っています。

だから、いつもありがとう。
愛をこめて。
一緒に、共倒れしましょう。

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