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戒厳令

「戒厳令」という映画を観た。
別役実脚本、吉田喜重監督
三國連太郎主演という怪物のような映画だ。
2.26事件にいたるまでの
北一輝を追ったセミフィクションである。

本作では「戒厳令」について、いくつか興味深いステートメントが出てくる。
北一輝は「その行為をより厳粛なものにするために、この場所を危険でいっぱいにしようとしたんだ。それが戒厳令さ」と言い、また「戒厳令の下ではどんなにつまらない行いや間違いですらも、厳粛さのうちに取り込まれる。(略)戒厳令は人々に秩序を与えるのではない。ただ人々の無秩序の中にある秩序を見出すのだ」と語る。
憲兵司令部の上司は、「(北の言う戒厳令は)被虐主義だね、マゾヒズムだ」と言い、「戒厳令下は、常に危険に満ち満ちていなければならない」と言う。

マゾヒズム。別役実らしい言葉の使い方だ。
三島由紀夫は言った。
「サディズムは好奇心、マゾヒズムは度胸」と。
この作品に対して、ある映画評論家は書いた。
「戒厳令がマゾヒズムなら、戦争も政治も国家も個々の人生も、マゾヒズムなのではないか」と。

北一輝は最右翼・日本ファシズムの教祖のように呼ばれることが多いが、実際は天皇の下に平等な社会を築こうとしたという点では、ヨーロッパのファシズムとは一線を画していた。
天皇を基準に考えると右、社会経済を基準に考えると左。そのような実に複雑な人物と感じる。

映画には「愚鈍ながら至誠の志を持った市井の人」として、ある夫婦が登場する。
これは別役実好きなら皆わかる 
「例の夫婦」である。
様々な彼の作品において、いつも重要な役割を果たすのだ。
要領も悪く、能率も悪く、まさに「愚鈍」
そのような夫婦に北一輝は
振り回され、足を引っ張られる。
彼らをどこかで見下し、自身のエリート性にあぐらをかいていた北一輝への
市井の人による報復が描かれる。

別役実の異常性は
その透徹した平らなまなざしにあると思う。
別役実にかかると北一輝さえ
男1、でしかないのだろう。
2.26事件に対しても
どこかでその緊張状態を愉しむ心があったはずだと、冷静に指摘する。

別役実は本当にかつて一度
共産党員だったのだろうかと疑問を抱くほどに
右左の思想に関しても
恐ろしくニュートラルだ。
そのことが本当に心強く、その冷静さゆえに
こちらにすべての判断が任されるのだ。

そんなことは知らなかったずっと昔
脚本というものを読み始めたずっと昔から
わたしは彼の脚本が好きだった。
美しく柔らかな言葉。
出口のない水のような。
嘘のように過剰さのない
幕切れのし方もとても好きだった。

天皇制批判をするのかと思えば
批判されるはずの人物を
庇うようなストーリー展開がある。
左翼的思考の人物の、足元を崩すような
鋭い言葉もある。
平等なのだ。
平等で、優しいのだ。
それがいちばん胸に突き刺さることを
別役実はわたしたちに教えてくれる。

戦争も政治も国家も、個人の人生も
マゾヒズムであるならば
演劇も死も売春も、集団性もまた
マゾヒズムであるのだ。
ならば、原爆もマゾヒズムか。

そう言葉にして、はじめて
到達し得る彼岸に 
我々は行かねばならない。
そんなことは言えない。
どんなに辛く苦しく痛いことか。
そんな感傷や偽善は
演劇の形を為さない。

突き放してはじめて
ああ。体が痛い。
心は体にあるとわかる。

わかっているふりも
わからないふりもいらない。
わかるとかわからないとかではなくて…
体験する、こと。
それだけが演劇であり得る。

別役実は語った。
演劇がよりどころでありたい、と。
消費ではなく蓄積を、と。
そして
演劇は「人間を強くすることができる」と。

外側に立つのだ。
憐憫や偽善の仮面を脱ぎ捨てて
舞台の外側に立つのだ。

笑って泣いて、ただ生きている。
愚鈍な市井の人として、立つのだ。
そのとき
はじめて見えてくるものがある。

悪役に徹するのも違う
主人公ぶるのも違う
ただのわたしとして、人は生きているのだから。

不条理劇なのに、どんな本よりも
会話が噛み合っていることに気づく。
そのことに気づいたときやっと
不条理劇の入り口に立っている。

わたしたちにはわたしたちの言葉がある。
もがいて生きてきた言葉を
華やかに意地悪に笑いながら
「平常心」で
つかまえるのだ。

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