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人情噺

あの頃はよかった。
そんな言葉は簡単に言わないようにしてきた。
でも今言おう。
あの頃はよかった…

かつてのわたしの職場にあって
今そしてこれからの職場に欠けているもの。
それは「人情」である。
そんなことを言えば、ぽかんとされるだけだろう。笑われ、あるいは聞き流されるだけだ。
でも、ほんとうのことだ。

「人情」は昨日今日で作り出せるものではない。
日々の積み重ねと尽きない情熱があって
はじめて「人情」は生まれる。

「人情」のある場所には物語も生まれる。
それがいわゆる「人情噺」である。
「人情噺」とは…
「情緒豊かで、笑いと涙が交錯するもの」
のことだそうだ。

笑いと涙が交錯するもの。
ほんとうにそうだ。
あの頃、わたしたちはどんなにか笑ったろう。
そして、泣いただろう。
どうしてあんなにも幸せだったろう…

わたしは、職場の愛する仲間を失くし
その後母を亡くした。
母を亡くしたのだから、少しくらい
わたしの言い分も聞いてくれるのではないかと
職場に期待したわたしが馬鹿であった。
死はただの死で
それと仕事は関係ないということらしい。

人が沢山辞めた後も、損得なく残った
スタッフへの仕打ちが
その思想を裏付けているのだろう。
仕事はただの仕事で
感謝も、ありがたさも、優しさも
関係ない。

今からでも遅くないことが
山のように見えている。
いくらでも善くなることが
善くなる可能性しか見えないほどに。
でもそれが改善されることは
永遠にないだろう。
そのことに絶望して
またスタッフが辞めていくだろう。
それはわたしなのかもしれないのだ。

「人情噺」には「落ち」がない。
必要ないからだ。
噺自体が面白く、自然に終わっても
人は満足してしまうからだ。
高度なものほど、言葉を必要としない。
二度言おう。
高度なものほど、言葉を必要としない。

テレビを観ればわかる。
週刊誌を見ればわかる。
饒舌過ぎる言葉の空虚さが。

法律を満たす。
営業をこなす。
求められている課題をクリアする。
事故を防ぐ。
落ち度のないケアをする。

正しいことだ。
正しい言葉だ。
水分を摂り、歩き、まっすぐに座り
適切に排泄をし、適切に入浴する。

正しい。実に正しい。
正しさの品評会みたいだ。
あんまり正しくて
気が狂いそうだ。

チーム。平等。
誰もが働きやすい職場。
クリーンでクリアで
ちゃんと敬語を使い
常に笑顔で
感情はいつもノーマルで。

素晴らしい。実に。
介護の理想郷だ。

もしもほんとうに、それが未来なら
わたしは何としても
この仕事を辞める。
辞めたくなくても
いられなくなるだろう。

わたしはクリーンでもクリアでも
ノーマルでもないからだ。
そして、命ある限り
そうなるつもりもないからだ。

お客さまにも、いろんな人がいる。
悪いことをしたら
お客さまであってもお話しなくてはならない。
それでも、その人を思い続ける。
寄り添い続けることが
笑顔のままで出来ることだとは
わたしは思わない。

無表情のときがあっていい。
疲れをみせたっていい。
家族の話をしたっていい。

自分が働いていて
楽しいことを見つけていっていい。

人が「介護職」を選ばないのは
「楽しくないから」だといつ気づく。

「楽しくない」仕事は
結局のところ真に「正しい」わけではないのだと
いつ気づく。

正しいふりは誰でも出来るのだ。
装うことは恐ろしいほど簡単なのだ。
それでいて
「真に正しい」仕事は
神の領域に到る、ということなのだ。

決して相容れない。
わたしはここで生まれた「人情噺」を
演ずることのできるレベルの
人間であり続けたい。

だから妥協は出来ない。
介護なんてこれくらいのものだと
諦めることは決して出来ない。

わたしは独立して
専属の噺家になるのだ。
「あの頃」を演ずるためだけの噺家に。

それもまたひとつの
「人情噺」である。

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