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死について考える

*ややデリケートな話題なので最初に断りを入れておくと、ここで言うのは「死」そのもので、それに至る過程やその背景の話ではない。
人の数だけ「死」があるので、あくまでそのものに焦点を当てた、一個人的な思考だ。
あと、長い文章になってしまった。
退屈しのぎにでもなればよいのだが…。*


死ぬことをなぜ人は古来から恐れるのだろう。
なぜ「死」を避けようとするのだろう。
「死」そのものも、それに関することでさえ。
なぜ忌み嫌うのだろう。
生き物としての本能としては納得だが
「ヒト」ではなく「人」として、その理性でどうして克服できないのだろう。
まあ所構わず持ち出すような話題でこそないが、
生き物であればいつか当たり前に迎えるものなのだから、「死」にネガティブすぎる印象を持つのも何だか不自然に思う。

魂とか、そのあたりは人によって宗教があるし
解釈も違うだろう。
それに今、肉体を通してしか認識できない世界にいる以上、それを失った先のことは正直想像の範疇でしかない。
だからこそ各々好きなように信じられるとも言える。

死後の世界があるのかはわからない。
待ち受けるのは果てない「無」かもしれない。
それでもいい。

人はそれぞれに使命や役割を持って生まれてくると私は思っている。
その人生の時間も、最初から運命として決まっているんだと思う。
それを生まれる前に知っているのか知らないのか、あるいは忘れてしまうのか、自分の寿命はわからないけれど。
もしもその、与えられた役目を終えた時に死が訪れるのなら、それは悲しいことではなくて「卒業」だ。
この世に残された人にとっても、その人から卒業するタイミングなのだ。
ならば清々しく手を振る別れであってもよさそうだ。
生きる喜びを失うのは悲しいが、
生きる苦しみからの解放でもあるのだから。
それにもしかしたら、次のステージへの旅立ちかもしれない。

そう思うと、
正直いつか自然に迎えるその日をちょっと楽しみにしている自分がいる。

私の死生観は、宮崎駿監督作品から大きな影響を受けている。

“シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。生と死と2つとも持っているもの。”

映画「もののけ姫」より

ラストシーンで、このアシタカの言葉を初めて聞いた時、ハッとしたのを覚えている。
胸のつかえが取れるような感じがした。
命の本質は、生と死の両方だ。
その両方が揃って初めて、命なんだ。

いつも感じることがある。
生のエネルギーが強い時は、死のエネルギーも強いように思う。
例えば、出産。新しい命が生まれる時は、母子共に死のリスクも高い。
激しい運動もそうだ。生命力溢れる躍動は、やはりそれだけの負荷が体にかかる。
逆も然り。
死にゆく時、最後の一瞬まで体は力を振り絞り懸命に生きようとする。

濃い影ができるのは、強い陽が差しているからだ。

生きることが輝くのは、死があるからなのではないだろうか。
そして、全力で生きてこそ、その死は晴れやかなものになるのではないか。

いつか死が訪れた時、私は手を振ってこの世界に別れを告げたい。
そしてその日のために、今を懸命に生きたい。

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