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『原発事故 国の責任否定』最高裁判決を元木っ端役人が解説

地球のため、全人類、夜は戒厳令(76)

「『原発事故 国の責任否定』最高裁判決を元木っ端役人が解説」

(2022/6/18読売新聞朝刊を参考にします。)
この裁判は国に責任があったのか無かったのか争われた裁判だ。

こうした文字面を見ると、あたかも行政機関やそれを構成する公務員に、責任があったかどうかについて争われているように見えるが、実は違うと断言する。

そもそも行政機関は、自力執行ができない。わかりやすく言うと、自走できない機関である。

選挙によって選ばれた政治家が行政機関の長となり、選挙によって選ばれた政治家が国会や国会に付随する委員会等を通じて行政運営に介入し、それら政治家の命令、助言、承認があってはじめて、行政機関は、その所掌する事務を執行できる。行政指導でさえ政治家が議決した法や政治家が決裁した要綱などに基づくのだ。

つまり、福島原発に計画段階から関わってきた全ての政治家に、責任があったかどうかについて問われた裁判、であると言っても過言ではない。

原発建設などというものは、極めてリスキーなものであり、高度な政治性を帯びるもので、国に丸投げで建設させてはならないのであり、あるいは、東電に丸投げで建設させてはならないのであり、国民の監視が欠かせない。
国民の誰もが、原発について十分理解し、あるいは、疑問を持つことができるわけではない。

だから、国民の代表である政治家をして勉強させ、国のほしいままにさせないようコントロールさせようとしたのが国会や委員会であるはずだ。

判決は、関わってきた議員の不勉強などの責任を否定してしまったのだ。

そして、最大に口惜しいのが、そもそも、電力というものは、生存に欠かせないものであり、いくら東電が民間企業といえども、国策会社であり、国と一心同体ともいえる企業である。単に公会計と違い、複式簿記であるからと言って、株式会社だからと言って、東電をいち民間企業になり下げ、

「どーせ『国が東京電力に対策を命じても事故は防げなかった』よ」

と判じている。

そして、国策会社であるにもかかわらず、国の責任を否定するに足りず、賠償は東電のみが負担することになった。国民の生命でもある電力を供給する電力会社の経営を危うくすることにもつながる。

国が命じても動かないのであれば、代執行してでもやらせる責任があった。
この判決は極めて政治色が強い。

賠償に国費を手当てすることができなくなったからだ。

国家予算には限りがある。
賠償も予算取りをして国会の議決が必要になる。賠償の対象者が少ないので、票に結びつかないし、なにより、予算に計上すれば、国会で、また裁かれることになる。国会でゴタゴタすれば、政権はその座を奪われかねないことにもなるから、国の責任にできなかったのだ。

ちなみに、一応、三権分立のはずだが、国家公務員の人事に政治が介入することになっているし、裁判所も国費を得て運営されているし、その給与も国会の議決に基づく。つまり、行政に属そうとも、司法に属そうとも、ついでに昨今話題の日銀に属そうとも、勤め人である以上、その生殺与奪は握られており、ひいては人生も握られている。

私は、この判決に政治臭を感じる。

ただ、この判決で「想定外のことは起こるんだよ」と断じてくれたことは大きい。いくら安全性をうたっても「想定外のことは起こるんだ」から、日本ではもう原発は稼働できなくなったのだ。


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