日記6/17 チョムスキーに傘を借りて
喉元過ぎれば熱さを忘れる、というけれど。
喉元に突き付けられた熱さは、寒気がするほどの苦しみを差し向ける。
今日は天気予報を聞いて、身震いした。
梅雨がくる。
もうすでに去ったと思っていた悪夢の時期が。
暑いのか寒いのか温かいのか涼しいのか乾いてるのか湿っているのか分からない。
いや、全てが入りまじってるからこそ生まれる気持ち悪さこそが、この梅雨というものの恐ろしさだ。
しかし2025年の人間にそんなことを放しても
「いやいや、今年の夏の方がひどかったよ」
とあしらわれる可能性もある。
それは温暖化やら異常気象が未来になるほど酷くなるせいかもだし、
喉元を過ぎた一夏のことを、「君と過ごした夏を忘れない」と多くの歌が言葉にしながら、そうはいっても人間の記憶構造に従って、段々忘れていってるせいなのかもしれない。
とはいえ、今の私にとって目先に待ち受けるのは、恐ろしく過ごしにくい地獄的なサムシーズンが恐ろしくてたまらない。
これが単に杞憂だったらいいのに、6月中人で既に気分が悪くなるほどムシムシジメジメムカムカイヤイヤしてるのだから、梅雨が来てしまえば更に不快なオノマトペが全身で鳴り響くことだろう。
しかしまあ、落ち着いてみると。
折角日記を読んでくれている読者の方がいるのに
文字に起こすのが不快感の比喩ばかりでは耳汚しだ。
せっかくなら、より上品に、聞くに堪える言葉遣いで苦言を呈してみたい。
例えば、哲学者にして言語学の権威ノーム・チョムスキーの名言を引くと
Language and Freedom (chomsky.info)
とある。
つまり、そういうことだ……と、言ってしまうと、英語で良いことを書いてある感がでて、他言語の威を借るキツネになれるのだけれど、実際英語の描いてあるNoteというだけで、気持ち格式が高く感じる、気がする。
翻訳しても
「言語は自由な創造の過程であり、その法則と原理は決まっているが、生成の原理をどのように使うかは自由であり、無限に変化する。言葉の解釈と使用でさえ、自由な創造の過程を伴う。」
としてしまえば、難しい概念を扱っている感がして、やはり格式のある表現にみえる。
私の梅雨への鬱憤も、より丁寧に筆をしたためれば、純文学へと昇華することもあるだろう。
しかし、中身は一切ない。
要約すると、今日この日記に書いてあることは、この一文含め「梅雨は嫌いだ」の一点しかない。
チョムスキーもまさか大平洋を越えた先で自らの生成文法論をこのように乱用されるとは思っていないだろう。
本当は様々な言語から共通する形式や構造の記述や人間の言語能力について、言語学でありながら、ちゃんと読めば目が覚めるような哲学書も書いているので、気になった方は読んでみてほしい。
そんなこんなで、そろそろ読者の気もそぞろになり始めている光景を、文章越しにでも感じてきたからお開きにしたいと思う。
今日はこれ以上蛇足を増やしたところで、梅雨が嫌だという意見以上に、この日記から発信したいメッセ―ジは何もない。
だがそれでも、一介のNote連載家として素晴らしい格言をひねり出すとすれば、
大雨と分かっているときは、折り畳みじゃなくて頑丈な傘を用意しよう。かさ張ることよりも、通勤中に折れてしまったときのほうが悲惨だから。
という、全世界に共通の内容しかいえない。
やはりチョムスキーの言語学は、時代を先取りしていたようだ。
……と、怪文になりかけてたので今日はここらで筆をおく。
こうしてグダグダ言葉を並べたところで、明日の雨はやってくる。
なら、ふざけた日記なんて書かずに、早く寝るが吉だろう。
慌てて外にでて傘を忘れてしまえば、それこそ梅雨の思うツボだ。
雨に唄っていいのは、傘をちゃんと持った人間だけなのだから。
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