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日記3/12 ゴジラと湯川秀樹と国際賞のトリレンマ


ゴジラマイナスワンがアカデミー賞を取った。
去年劇場で泣いた映画の一つであり
何遍も批評や考察を書いた作品だ。

目を瞑ってシーンを思い返しながら
その細部一つ一つのこだわりに想いを馳せ
ダイナミックな映像に心奪われた記憶で
書けばキリがない感想を満足行くまで書いた。

じゃあこの日記に、改めて何を書こう。
感想は既に書いたので別視点が良い。
そう私の頭を掘ってみると
あまり役立たない雑学の一つに

湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞した日と
ゴジラの第一作が劇場公開された日が
1949年11月3日と
1954年11月3日で一緒
というものがあった。

別にこの知識はコアでない。
ゴジラの特集あれば
10回に1回は紹介される豆知識だ…と思う。
そして「科学の発展がもたらしたのは、何だったのか」と
視聴者に疑問提示して、次のコーナーに移る。

ゴジラマイナスワンのアカデミー賞の受賞をみて
なんとなく思い出したそれを
ただの日付の偶然で済ませるには惜しい。
そう思った。

湯川秀樹の生家は空襲で焼失した。
本人の著作では

麻布の家の辺りは、戦災に遭って、今ではすっかり相貌を変えてしまった。

湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想 』(角川ソフィア文庫)

としかないが
1945年5月の「東京山の手大空襲」で
麻布、赤坂、芝区の広範囲が焼失したから、この頃の話ではないかと思う。

当人は1歳2ヶ月で京都帝大の教授となった父と共に、京都へ引っ越してから38年後のことである。

住んだのは僅かとはいえ、
生まれた土地を焼かれた4年後に
ノーベル賞を受賞した。

当時、彼は科学の著名人であった。
反核運動の活動として、当時の著名人らが核廃絶を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言に署名もしている。
原子力委員となり、早急な原発開発に腹を立ててすぐに委員を辞任しようとした話もある。

彼が受賞から5年後
受賞した日と同日に公開された
原爆により呼び起こされた怪獣の話を聞いて、何を想ったのか。
どこかの記者が必ずインタビューしてると思うが
記事は未だ私の元には見つかってない。

世間は私という人間について、一応のイメージを作りあげてしまった。そのイメージが、どこまで正しいか。一つの判定資料を提供したいと思うのである。

同書

湯川秀樹は、ノーベル賞によって
偉大な科学者と世間に知られ
偉大な賞に見合う人格者として
そうであるように語られていった。

ノーベル賞は言わずもがな
ダイナマイトによる収益がその起源だ。
科学が軍事に利用される悲劇として語られることも少なくない。

同時に、ノーベル賞は
欧米による主観やエゴが多いと非難される賞でもある。

今回のアカデミー賞で作品賞などを取った「オッペンハイマー」も、科学者が原爆により揺れ動かされる話だ。
(その批判の吟味はともかく)長崎や広島の描写がない、オッペンハイマー個人にしか主観がないことで原爆の本当の悲劇が誤解されて普及されると議題になっている。

アカデミー賞もまた、
欧米的な価値観に重きを置かれた
欧米が受け入れたいものだけ受け入れる賞などと論じられもする。
ゴジラが賞を取るべきでなかったという声も出ていた。

科学の悲劇の中で
人が生まれ、作品が生まれ、賞が生まれ
その作品を褒め、賞が与えられ、それを人が喜ぶ。
しかしその賞こそ、人こそ、作品こそ
科学の悲劇を生み出した当事者たちなこともある。

そんなトリレンマのスパイラルは
きっと科学が発達し、戦争が起き、物語となるたびに生まれ続けるのだろう。


湯川秀樹は同作にて冒頭にこう書いた。

ある人が、鏡に向って自分の顔を見る。
それは他人が見たその人の顔でもある。
ところが、自分が他人の目に見えない自分の本質について語る時、聞き手は意外な顔をするかもしれない。主観と客観の一致は、この場合むつかしいのである。  ことに私は生れつき、自己を表現することに困難を感じる人間である。
それにまた自意識過剰の人間でもある。
自分を客観的に見ようと努めながら、自分でそれを裏切ることになるかもしれない。

螺旋は、ただ渦巻くのではない。
そこに鏡が置かれている。
科学者は自分たちの科学を批評する。
製作者は互いの作品を批評する。
ゴジラの目を通して我々も、原爆や戦争とそれを生み出した人間自身を見続ける。

それが例え拙くとも、
自分の目に映る真の自分を
評価できるのは他者でなく、自分だけなのだ。

そんなことを書きながら
私はゴジラマイナスワンの受賞を
玄関の鏡の前で、祝うのだった。

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