『祝福二世:信仰を捨てた元統一教会信者の告白』を読んで
統一教会二世として生まれ、熱心に教会活動に勤しんでいた時期もあった元統一教会信者、宮坂日出美さんのノンフィクション『祝福二世』が、なかなか評判のようだ。
私は一年ほど前に、本書の原本ともいえる「カクヨム(WEB小説サイト)」の連載、『カルトとマネロン』(以下、『マネロン』)も読んでいたので、それが書籍化されると知った時は、率直に嬉しく思った。
私が『マネロン』に関心を持ったのは、バリ教(バリバリの信者)だったという著者が教会を辞めるようになった軌跡のようなことが著作の紹介にあったからだ。
真面目に教会の活動に励んでいた信徒が離教してしまうことは時々ある。人それぞれ教会を離れるきっかけや理由は違うだろうが、自分自身を含め、そこには反省することも学ぶこともあると思っているからだ。
そして読み進めて感心したことの一つは、事実と筆者の思い、人づてに聞いた話とを、読者が区別して理解できるよう丁寧に書かれていた点だ。
過去の記憶をたどりながら、当時の思いを率直に綴っているのも好感が持てた。
『マネロン』における筆者の、この実直な叙述は、『祝福二世』にもしっかりと引き継がれている。
『マネロン』で響いた二つの逸話
『マネロン』の中で、私の心に響いた話の一つが、「世界日報事件」後に、教会組織内で、居場所を失っていった著者のお父さんの逸話だ。
統一教会の信徒が行う朝の「敬礼式」にお父さんが参加しないのを、幼い頃から不思議に思っていた著者が、ある日、お父さんから昔話を聞いて、なぜ敬礼式に参加しないのかを悟ることとなった。その一方で、お父さんは一人で、ひっそりと一時間も二時間も祈っていたことがあったという。
事件後、お父さんが心の傷を負ったであろうことは想像に難くない。そして同じような境遇に置かれることになった当時の信仰仲間の中には、教会に恨みを持った人もいたことだろう。そして教会と縁を切った人もいたかもしれない。
そんな状況におかれながらも、著者のお父さんが、静かに祈り続け、変わることなく信仰を持ち続けていたのは、宗教者として一種の感動を覚えるものがある。
もう一点、教理的なことになるが、統一教会で行われる活動「万物復帰」(物品販売)を教義と結び付けてトレーニング化したのが、実は著者のお父さんだったという逸話にも「なるほど感」があった。
それというのも、私は教会活動を始めた当初から「万物復帰」の教義付けに違和感を感じていたからだ。後に、韓国では日本のような万物復帰の教義付けがなかったことを知ることで、「やはり、これは日本独自に開発したものではないか」という思いを持っていた。
従って、著者がお父さんから聞いた「万物復帰」活動のトレーニング化の話はきっとその通りだろうと思った。
『祝福二世』に描かれた離教までの軌跡
ところで、『マネロン』が書籍化された『祝福二世』には、私が前著を読む動機であった離教するまでの軌跡と心の動きがより詳細に描かれていた。
スイスでマネーロンダリングの現場に居合わせたショック、K教会長のデリカシーを欠いた言葉。
少しした疑問がその後の様々な出来事を通して、さらに増幅することがある。一方で、どこかでその疑問を修正できることもある。
著者が20代前半に抱き始めた疑問や不信はその後も膨らみ続け、次第に教会の活動から距離を置くようになり、離教するに至ったという。
読者に期待したいこと
本書は現役の統一教会信徒からの評判は結構いい。統一教会、そして信仰を持ち続けた親への批判的な内容があまりないからであろう。そして今厳しい状況にある統一教会への同情も感じられる。
出版前に私は著者とX(旧Twitter)でやり取りした時、著者は「出版されると現役信徒から批判されるかも」と少し心配していた様子があった。しかし『マネロン』を読んでいた私は、「多分そんなに批判されないと思う」と伝えていたように記憶している。
予想通り、本書について現役からの批判的な評価はほとんど聞かない。しかし、本書には教会への苦言もしっかりとある。例えば以下のような記述だ。
人は概して都合のいい情報は喧伝するが、都合が悪い情報は読み流したりするものだ。
私は、現役信徒が本書を読む時は、統一教会への厳しい著者の声にも耳を傾けてほしいと思っている。
統一教会に反対する人たちが本書を読む時は、描かれている著者の「朴訥」な声に思いを寄せてほしいと思う。
そして、統一教会について詳しく知らない人たちも含め、本書に関心を持った人たちが、著者が綴った人生を通じて、今まで気づかなかった世界を感じ取り、それが何かより良い未来に向かうきっかけになればと期待している。