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奇妙な話:壁男

 私が暮らしている町はお世辞にも治安が良い地域とは言えない。警察官と不良少年が取っ組み合っている晩もあるし、精神を病んだ老人が往来で卑猥な言葉を突如として叫び出して驚かせる日もある。確かに彼らは迷惑な存在ではある。だが、自ら危険に踏み込もうとしなければ、実害を被ることは少ない。彼らのテリトリーを侵さない限り、牙を剥かれることはない。

 彼らはある種のルールに則って生きているだけなのだ。そして、そのルールが自分にのみに適用されるものであることを理解している。干渉されない限り、彼らは実に寛容な性格をしていたりする。正直に言うと、そういう大雑把な生き方をしている人達が好きである。礼を尽くせば礼で返してくれるからだ。

 大体の場合、彼らのルールは単純明快で無邪気な内容である。だが、時折、全く理解できないような珍妙なルールに従って生きているらしい人間に出くわすことがある。そういう人間と遭遇する度に密かに戦慄せずにはいられない。自分の中の常識が通じないどころか、根っこから覆されるような感じがするからだ。そういう人間を決して直視してはならない――。

 私が暮らしているマンションは駅街から少し離れた所に建てられている。実に鄙びた感じのする地域であり、好んで立ち寄る者はほとんどいない。長閑な場所であるが油断してはならない。そういう土地は奇妙な人間のテリトリーになりやすいからだ。私はその男性のことを「壁男」と呼んでいる。

 一体全体、あの男性は何者なのだろうか。ブロック塀にピッタリと身体をくっ付けて、延々と何かをブツブツと呟いている。たまにケタケタと笑うことがあるようだが、何が楽しいのやら皆目見当もつかない。傍目には壁に向かって話しかけているようにしか見えない。仕事帰りに彼の姿を見かける度に、実に厭な気分に陥ってしまう。何というか――、悪いことをしているわけでもないのに不吉な感じがする。

「壁男」の脳髄の内側でどのような現象が起こっているのかは分からない。理解できないから余計に不気味である。彼の中にも歴としたルールが存在するのだろう。だが、どのような経緯で壁に向かって話すようになったのか、またその理由について考えを巡らせてみても、一向に解答を導き出せそうにない。

 だから、私は彼を直視しないようにしている。「壁男は壁男であって何者でもない」と思うようにしている。広い町なのだから奇妙な人間が一人いても不思議ではないと思うようにしている。こちらから触れようとしなければ牙を剥くことはないのだと思うようにしている。だが、それでもたまに不安に襲われることがある。一体全体、あれは何なのだろうね?

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