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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#009

#009 サマーツアー、離れてわかったことがある。

 トレススコープの置いてある辺りは、エアコンディショナーからはいちばん遠い位置にあった。おまけに強い西陽が窓を直撃しているので、紙焼の写真一枚をトレースする度に大粒の汗がレイアウト用紙にポタポタと垂れた。トレススコープというのはプリントされた写真などの「反射原稿」を引き伸ばすデザイン器機で、同時に焼き付けもできるので、広さが畳一畳、高さ一八〇センチほどの小さな暗室になっている。
 代々木にある編集プロダクション「JACK出版」の一室。外ではさっきから右翼の宣伝カー何度も同じことをわめき散らしならがら過ぎ去っていった。そうか──、そろそろ終戦記念日が近いんだなと思った。一九八四年八月のことである。トレススコープの中はサウナのように暑かった。
 紙焼写真はピンク映画やにっかつロマンポルノの宣伝用スチールで、一昨日丸一日かけて僕が歩き廻りかき集めてきたものだ。
「とにかく金はまったくかけられないからな」と降武は言った。僕らが作る『ボッキー』というエロ本のことである。そして、「これはもう作ると言うよりも、デッチあげると言った方が正しいかもな」とも降武は付け加えた。
 お金をかけずにエロ本を作る際、ピンク映画、ポルノ映画のコーナーを作るのは常套手段だ。スチール写真やポスターは基本的に無料でもらえるからた。濡れ場の写真をモノクログラビアにでも使えばそれらしいヌードページが作れるし、映画会社は宣伝用にプレスシートと呼ばれる作品解説の載ったチラシを作るので、その文章をアレンジして(と言うかパクッて)作品紹介風のコーナーをデッチあげることもできる。
 一昨日は午前中にジョイパックフィルムなど洋物ポルノ映画会社の宣伝部を廻り、午後は六本木「にっかつ本社」の地下にある宣材室へ行った。ここは僕が学生時代に上野の映画館でバイトしていたときにお世話になったところで、顔なじみのオジサンに「おっ、就職したのか。偉くなったな」と言ってもらったけど、ジョイパックの宣伝担当のひょうきんな人には、案の定「『ボッキー』って勃起の意味? うひゃひゃひゃ」と笑われた。
 その後六本木から日比谷線で恵比寿へ出て、山手線で田町へ。芝浦の倉庫街にある通称「宣材倉庫」へ行って、ピンク映画のスチールを集めた。以前、麹町の出版社時代にも何度かお使いで行った。駅から海沿いの埋立地をエンエンと歩くやたら遠い場所にあるうえ、倉庫を管理しているジイサンとバアサンがやたら態度のデカイいけ好かないヤツらなので、できれば近づきたくなかったのだがそんなことも言っていられない。
 僕は真夏の海沿いの太陽を浴びで汗ダラダラになりつつ、感じワルイそのジイサンバアサンにペコペコとアタマを下げてスチール写真を分けてもらった。しかし実は態度がデカイ、感じワルイというのはこちらの勝手な言い草で、その人たちの本来の仕事は、全国各地のピンク映画館へポスターやスチールを発送することなのだ。そこに、まったく無関係で怪しげなエロ本屋が「写真タダでください」なんて言ってくるのは、忙しい最中にまったくもって迷惑千万な話だったろう。
 あまりの暑さに、僕は一旦トレススコープの暗室から出て、大きく背伸びをした。もう約一週間ほどブッ続けでこの編集部に通い詰め仕事をしていた。日曜日の編集部はひっそりとして誰もいない。降武は夕方から出てくると言っていた。それまでに昨日夜遅くまでかかってレイアウトして、原稿を書きあげたこの八ページほどを仕上げてしまうつもりだった。今思えばたいしたやりがいもない、いい加減でつまらないエロ本のデッチあげ映画コラムのページである。だけど僕はそれに夢中になっていた。いったいなぜだったんだろう?

 あの日降武と一〇〇円ラーメンを食べ、いったん渋谷南平台の事務所に戻ると、山上さんが中古のスチール机に大きな身体を縮めるように座っていた。
 山上伊知朗さんは事務所の正式なスタッフではなかったが、毎日のように顔を出していた。早稲田大学を六年か七年かかってやっと卒業したばかりで、在学中はアングラ劇団の制作主任をやっていたらしい。現在はシナリオライターかテレビの放送作家を目指していると言っていた。
 身長一八〇センチ以上、体重も一〇〇キロ近い巨体で、そのうえツルツルに剃り上げた頭に黒ぶち眼鏡という実にインパクトある風貌の人だった。しかしながら女の子に「ヤマガミさんはどうしてスキンヘッドなの?」と尋ねられると「いやいやこれはそんなシャレたものではありません、単なる若ハゲです」と答える朴訥とした佇まいの人でもあった。
「おや、ユーリくん、これはイイところでお会いしました」と、山上さんはドアを開けた僕を見るなり律儀な感じでそう言った。
「実はですね、折入ってお話があったのですよ。つきましてはまだ陽は高いですが、どうです生ビールでも」
 梅雨が明けそうな七月の午後五時頃で、山上さんの言うように外は昼間のように明るかった。だけどどうせ、僕には事務所に戻ってもやることなどないのだ。僕らは連れだって事務所を出て、南平台の坂道を下って行った。
 山上さんが「この店にしましょう」と言い、僕らは渋谷駅西口東横線ガード下の居酒屋に入った。そこはかつて五十崎が僕を呼び出した「天風酒蔵・やまがた」だった。五十崎は何をしているんだろうと考えた。あれ以来、会っていないし、電話でもしゃべっていない。

「いやー美味い。明るいうちから飲むビールはなンでこうウマイんでしょうな」と山上さんは大ジョッキを一気に三分の二ほど飲み干し、「ところでユーリくんは、僕とコージくんが『週刊プレイボーイ』で連載しているナベゾのイラストルポご存知ですよね」と言った。
 コージくんというのは小林広司という僕の学生時代のバンド仲間で、南平台の事務所に誘ってくれた男だ。映画監督を目指していた。ナベゾとは言うまでもなく元『ガロ』編集長のイラストレーターで、著書『金魂巻』がベストセラーとなり、当時急にメジャーになってしまった感のあった渡辺和博である。
『週刊プレイボーイ』の記事は見開き二ページで、ナベゾ氏が毎回街の面白い場所、怪しい空間などに出向いてルポする。文字の多いイラストはもちろん本人が描くわけだが、本文の原稿は山上さんと小林が一週交替で書いていた。
「あの連載は軽い金稼ぎのつもりで始めたんですが、その取材の過程でちょっとばかし大きな仕事に関れそうなんですよ。それでユーリくんにも是非一枚噛んで欲しいト、マアこういうことなんです」
 山上さんの言う大きな仕事というのは、フジテレビで始まる深夜のバラエティ番組だった。渡辺和博はその年からお昼のバラエティ『笑っていいとも!』にレギュラー出演していたため、山上さんたちもその関係で局に出入りしているうちに、その新番組に放送作家として入らないかと誘われたのだそうだ。
「サザンの桑田さんがメインの番組なんですよ」と山上さんは言った。
「だからサザンオールスターズは番組中に必ずライブで二、三曲は演奏するし、桑田佳祐はコントもやります。それとユーリくんは『スーパー・エキセントリック・シアター』という劇団をご存知ですか?」
「いえ、演劇にはあまり詳しくないので」と僕がそう言葉を濁すと山上さんはビールを飲み干し、
「三宅裕司という人が座長なんですけどね、イヤハヤこれが面白い。それと小倉久寛という役者がいるんですが、この二人の掛け合いたるや面白いのなんのって、戦場の兵士のコントなんぞをやるわけですがコレがもう、抱腹絶倒と申しますか」と嬉しそうに言った。
 山上さんは「面白い、面白い」と力説するものの、僕にはその『スーパー・エキセントリック・シアター』という劇団どう面白いのかはよくわからなかった。ただ、彼がその仕事に入れあげていることだけはひしひしと感じられた。
 それにサザンオールスターズと言えばその頃六枚目のオリジナルアルバム『綺麗』をリリースしたばかり。デビュー直後こそテレビでオチャラケを演じていたサザンだが、その頃にはすっかりアーティストという雰囲気が漂っていた。そんな彼らが深夜とは言えライブで数曲唄う、さらに桑田佳祐はコントまでやるとなると、放送作家を目指している山上さんとしたら大きなチャンスなのだろう。

「それとね、この間の会議には景山民夫さんが見えたんですよ」と山上さんは言い、僕はなるほどと思った。
 古くは『シャボン玉ホリデー』の末期からテレビに関り、七〇年代には『クイズダービー』から『11PM』『出没!おもしろMAP』を構成していた景山民夫は、僕ら世代にとってカルトヒーローのような存在だった。そんな人と同じ番組関れるのなら、山上さんでなくても興奮するはずだ。
「そこでですね、ユーリくん」と山上さんは言った。「ココはコージくんと三人で組もうじゃないですか。正直僕はしょせんアングラ芝居の出身ですからね。それにコージくんも映画の演出が本来の志望だし。二人では少々ヨワイのですよ。ですから三人で作家チームを作りませんか。そうすればテレビ媒体でも週刊誌でも、色々と面白いことがやれると思うのですよ」
 山上さんはそう言って手にしていた大ジョッキを飲み干すと店の人を呼び「あ、ココに生ビールを二つお願いします。それと焼き鳥も二皿ほど」とヤケにキッパリと、そして律義な感じで注文していた。
 その後僕らは一時間半ほどそこで飲んだだろうか。山上さんはその大柄な体格そのものに、彼が今抱えている仕事、これからやってみたいことについて精力的に語ったけれど、僕はそれに相槌を打ちながらも基本的にボンヤリしていた気がする。
 確かに彼が誘ってくれた仕事は魅力的だった。それに僕はその日降武に『ボッキー』という雑誌をひと夏手伝うと答えただけで、正式にJACK出版の社員になるとかアルバイトとして働くという話さえしていなかった。さらに言えば山上さんが「軽い金稼ぎのつもりで始めた」と言った『週プレ』のルポ記事だが、以前に小林広司から聞いていた。そのギャラはたった見開き二ページにも関わらず、僕が麹町のギャンブル会社でもらっていた一カ月ぶんのアルバイト代よりも高かったのだ。
 だけど僕は、生ビールを飲み焼き鳥を食いイキイキと語る山上さんの話を聞きながら、「たぶん自分この人の誘いを最終的には断るんだろうな」と思っていた。降武は「言っとくけどウチは給料安いからな」と言っていた。版元と呼ばれる出版社より、その下請けである編プロの方が給料及び待遇が悪いのは当然のことだ。だけど、あの代々木のマンションの一室。たった四LDKのあの空間には、そのときの僕をどうしようもなく惹き付けてしまう何かがあったのだ。それがいったい何であったのか? 実は今でも答えは出ていないのだが──。

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