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【一千文字評】犬王 - 美と凡庸、醜とユニーク

実在したとされる猿楽師、犬王。
湯浅政明を中心に松本大洋、野木亜紀子ら現行のドリームチームが結集し、彼の物語をアニメーションで描く。

「物語を拾い、語り継ぐこと」について、その表裏一体として「語られなくなれば、忘却される」ことをテーマに据え、それが「犬王」という今や忘れ去られた人物の生涯を描くこの作品そのものと一致する。その意味で非常にコンセプチュアルな作品だ。
そしてなにより、この話をロックミュージカルにしてしまう大胆不敵さ、奇想天外さこそが最大の魅力。とんだ飛躍でありながら、見終わってみれば「これ以外には考えられない」とも思えてしまう。湯浅政明作品だからできる奇策、でも正攻法なアプローチと言えるだろう。

とはいえ、気になるところがなかった訳ではない。

作中で犬王は異形の姿で生まれ、彼の猿楽が極まっていくにつれてその姿は美しいものへと変形していく。道理としてはわかる話なのだが、生まれもっての異形を「醜」とし、一般的に健康体とされるギリシャ彫刻のような肉体を「美」とするのはあまりに短絡的すぎ、感じの良い話じゃない。

この美醜にまつわる部分は原作に元々ある要素なのだが、具体的な描写は最小限にして、犬王を「醜を纏った存在」とする抽象的な方法論をとっていた。概念としての美醜と犬王の肉体は紐づけられる。小説の特性を活かした方法だ。また犬王の肉体は彼の猿楽が芸術的な美を獲得することで浄化されるというような描かれ方をしている。

しかし映像にする以上、その美醜に具体性が帯びるのは避けられない。その結果として先天異常を持った肉体は醜く、それを一般的な健康体へ変身させることが良き事なのだという歪んだテーマ性が生まれてしまっている。映像のイメージは強力で、芸術的な美醜という抽象的な話より具体的な肉体の美醜の方が強く前面に出てしまうのだ。

一方で犬王が肉体的な美を手に入れるほど、アニメーションならではの快楽は減じていく。醜とされる姿の方がアニメとしての自由度が高く、一般的な肉体に近づくほど動きも現実に近いものとなっていく。アニメだからこそ生じるユニークさは醜の姿の方が富んでいるのだ。

そう考えれば、こういう解釈もできる。
最終的に犬王は歴史の中に埋もれていく存在だ。なぜか。
確かに彼は美を獲得したのかもしれないが、引き換えにユニークさは失ってしまった。美しいが凡庸か、醜いがユニークか。そういう物語ともとれる。

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