穴倉に生きて
私はこの場所で静かに生きている。
静かに生きるというのは、意外に難しい。
というのは、私のその意志を邪魔しようとする輩が結構いるからだ。
一番面倒くさいのが、3軒隣のタコ八の小僧だ。
やつもここと同じような薄暗い場所で、ひっそりと暮らしている。
ただ、やつは時々「孤独」に耐えきれなくなる。
そして、わざとらしくこの穴倉の前を通り、挨拶なんかをしてきやがる。
「どうだい、アンコウ先生? 最近、調子はいいかい?」
私にはやつが寂しさを紛らわせるためだけに、私にバカ話をしかけているという
意図がわかっているから、いつもまともには相手にしない。
「ああ、絶好調だぜ。お前は?」
「オレはいつも通りだよ」
その後、しばらく間があった。
なんだ、今日は終わりかと思っていた時、やつは2発目を繰り出してきた。
「でも、アンコウ先生よ。
あんたは絶好調だというけど、どうもそうは見えないがな…
かえって、いつもより気分が悪そうだけど」
「あのなあ、オレはいつもこんな顔なんだよ。
いつも不機嫌そうで、怒っているように見えるんだ。
これがアンコウの宿命だ。
お前だって、オレと会うたびにいつも思ってたんだろう。
なぜ、この人はいつも怒っているんだろうって。
さあ、そんな話なら、よそでやってくれ」
「アンコウ先生、ごめんよ。
あんたを怒らせるつもりはなかったんだ。
ただ、このところ、妙に誰かと話がしたくなって…」
それは、お前が傷つきやすい甘ったれで、孤独に耐えきれなかったからだろう。
私はそんなことを思ったが、言葉には出さなかった。
「だって、アンコウ先生だって、結構暇そうにしてたし…」
「オレは、暇そうに見えるだろうけど、思索という重要な仕事をしている。
だから、しつこいようだが、そんな話なら、よそでやってくれ」
タコ八はなかなかこの穴倉の前を立ち去ろうとはしなかった。
こちらを見るわけでもなく、下を向いて地面にある何かを足で探ってみたり、
ただ、なんとなくぶらぶらとしている様子を演じているようだった。
私はそんなタコ八を無性に哀れに感じた。
この穴倉に招き入れて、少しの時間でも相手になってやろうかとも思った。
だが、私の変なプライドが邪魔をした。
さっきあんなに強気な態度に出たから、引っ込みがつかなかったのだ。
ただ、あまり長時間、私の穴倉の前に居座られると、水の上から私たちを
狙っている人間どもに見つかってしまう可能性があった。
だから、なんとかタコ八にはこの場を去ってほしかった。
私はその時、タコ八の気持ちなんて、何も考えない、身勝手な男だった。
「もう、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか。
ほら、この辺りも明るくなってきただろう。
そろそろ人間どもが騒ぎ始めるころだから…」
しばらくタコ八は、何も答えなかった。
ただ、悲しそうな顔をして、私のほうをじっと見つめていた。
あの時のタコ八の目を私はいまだに忘れることができない。
「なあ、アンコウ先生。その穴倉に一日中いて、たまには
他のやつらと話をしたい時ってないかい?」
「ないね」
私は、きっぱりと言い切った。
こんな甘ったれたやつと傷のなめあいで時間をつぶすつもりなどなかったからだ。
「そうかい…」
タコ八の目の中にあった悲しみの色はさらに深まった気がした。
私には、すこし後悔の念ができ始めていた。
だが、もう遅かった。
「そりゃ、たまにはあるかもしれないが…」と私が言いかけた瞬間、タコ八が言った。
「わかったよ。それじゃ、そろそろ行くわ」
私はあわてて、さっきの言葉を撤回しようとしたが、出てきた言葉は、真逆の言葉だった。
「それじゃ、またな」
タコ八は、振り返りもせず、その場を立ち去った。
私はタコ八の後姿をただぼんやりと眺めていた。
タコ八が私の穴倉の前から姿を消して、どれくらい経ったことだろう。
2年? 3年?
私はあれ以来ずっと後悔の念にさいなまれ続きてきた。
タコ八にもう一度、この穴倉に来てほしかった。
そして、やつに謝りたかった。
私はタコ八の心をさんざんに傷つけ、自分自身は外の及ばないところで
やつの弱さをもてあそんだのだ。
私はあまりにも長くこの場所にいすぎたのかもしれない。
だから、他のやつらの気持ちに鈍感になっていたのだ。
今ならわかる。
私はいつもタコ八の来訪を心待ちにしていたのだ。
タコ八よ、待っていろよ。
今度は私のほうからお前の住む穴倉に行く番だ。
もしかして、タコ八はもう、あの場所にいないかもしれない。
それなら、それでいい。
その時は、この近辺を探しまわればいい。
私にとって、今、重要なことは、この穴倉から出ることだからだ。
つたない一歩でもいい。
とにかく前へ一歩踏み出すのだ。
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