個性化と麻雀放浪き

無意識にはやはり無意識の才能ってもんはあるなあ。あれかも知れない、才能の違いならと諦められる人も居るのかもしれない。最近謂われるように、諦めるは語源的には深くて、日本語の古い時期に成立した事は寓意や含意としては、明るい事は多い。諦めてイイよと言われると諦めたい しかし、その気持ちはちょっと考えたい。あまりに自己に拘らない態度とか、そういう人は昭和の後期に一気に背負っていた世界といっしょに去ってしまった。
それは実際いいところもあるし、そう見えるし、ウソとは言えない。

それは調和に埋没してしまう種類の性格の良さというもの、かも、知れない。
結局そういう時になると、いわゆるうとまれる自我の強さとか、主張の激しさ、とか、自己主張の明確さとか、日本に合わない強さとか、否定に足る様な根拠を得ていても、それは必要かも知れない、その時に。
狭い以外はよくても、狭さは明確に分からないと、いけない。
かりに、例とするなら、河合隼雄と、古井由吉と、色川さんといて無意識なのは誰かという時は、意識化しなかった色川さんという事になる。
結局それは分かりやすいと無意識とは言わない。
単に物事の性質として、そうかもね。
要するに情操の部分ゆえに。
耕すのに20年やそこらと言われた時に団塊世代と矢沢永吉と言いたくなる。
成るよ。
ふうむ、そこをこらえなきゃ。
ありのままの全て分かるかい。
そういう時は勢いや特に理解は、1つの観点の項目。うけとめるというのは、分からない時も、する。
むしろそれこそという程。
無意識というのはそれくらい、したに深くはないと学生用の参考書となにも変わらない。
無意識とはなにか、それはそういう所にある。
もちろんネットニュースから無意識をわかる人なんて居ない。居なくたって次に言うと、いい。
表面と外向的、それはあなたのスタイルかもしれない。大真面目に肯定派に立ってもいい。
その形相なり、結果を過程の究極的な物としたいかも知れない。
それは明確に違うから、外との交渉を外なりに譲ってもいい。
本質を一切含まないなら、大きいものくらい譲れる。

あなたと、それと。
さあこうなると、あなたを深いと言いたい。
そこは正論に思える。

それの深さをわからない人は多い。
単にそうという事。
誰それの運は単によくないということ。
一度身近な愛着に凝り始めたら、そっちへと偏重する。周辺の遠距離恋愛程度に遠い事には、関心を払わない。その遠距離恋愛くらいというのは、関係あるものを多分にふくむ。
尾崎豊みたいに熱烈に愛から伝えられたことは記憶して愛着を煮詰めて、ひとつの事を単にひとつ解らないという事は、印度の0の発見よりうしろを、歩いた歴史に居る。1から上を扱っている。1は何から来るのか。1のしたはわかっているか。
くっきりと自分の理解なのか。
0未満は、0以下は、明らかにあって、無益とは言い切れはしないなか、氷山のほうに着目するという事は水面下を全部逃していることに、成る。それはハウツーとは言ってもいい。まー。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。