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岐阜に至る② 足跡を辿る旅 〜国分寺、見なくなった光景。

祖父が亡くなったのは確か昭和54年の
5月と記憶する。

それは明け方で静かな最後だった。
肝臓がん末期の痛みは酷く、壮絶だと聞いていたのに、その顔は微笑み、どこかホッとしたのを覚えている。
数年前に母方の祖父を亡くしていたので
身内の死は初めてではなかったはずなのに、
わたしはひどく打ちひしがれた。

まだ幼く、たまにしか会わない母方の祖父は
美しい思い出しかなく、
彼の人らしい生臭さを知らぬまま別れた時と違い、喧嘩もし、本気で怒られ、
いい意味でも悪い意味でも
肉親の奥に横たわる暗黙にまみえた祖父との最期は人らしく、
あれほどまでに身をもって知った死は
初めてだった。

昭和54年といえば1979年。今から半世紀も前のこと。
果たして祖父の出生地を探す手立ては残っているのだろうか。
戸籍簿は150年保管との取り決めもあるので
ギリギリ間に合うかも知れぬ。

死亡地がはっきりしていれば、
その直系四親等はかんたんにその戸籍を辿ることができるらしいが、転籍を繰り返したり、戸籍が複雑になっていれば時間を要することもあり、何より金銭的に費用が嵩む。

祖父の正確な出生地を見つけるほかに、
今回知りたいと思っているのは
某大学、勤めていた役所での同人誌に
祖父の残した原稿がないか調べることにあった。
そのため、戸籍とともに正確な居住地入手し、
それぞれの機関に行き
過去の原稿を探し当てたいと考えていた。

詳細で緻密なデータを揃えておく事は、スムーズに情報を開示してもらえるメリットもあるが、
それ以上に、深掘りするための確実な糸口を掴むきっかけとなる。
しかし、戸籍以上に厳しいのは居住地を追うという作業、要は住民票の請求ではないかと思っている。

周知の事実であるが、
虐待やストーカーなどの問題からか住民票の取得は基本親族であっても本人以外はできない。
父に聞けばさもない事なのだが、
年々気難しく、他人の話を聞かない、挙げ句の果てに訳もなく憤る3点セットなのでとにかく厄介になりたくない。

国分寺の前は新宿、戦後一時期関西におり、その前は確かY市と聞いた覚えもあるがなんともあやふやである。

とある土曜日、わたしは国分寺にいた。
駅前は変わり、雑然としていた。
家を離れてから両親が10年ほど住み、
家はすでに人手に渡っている。
駅前から通勤、通学で慣れ親しんだ道順通り、
元の我が家へと行く。
六月の梅雨時期というのに29度の晴れ日、
日傘をさしてゆっくりと進む。

子どもの頃に感じていたよりもはるかに貧相で、細く朽ちたような道に、
時折、記憶に残る表札や家屋が見える。
子どもの時分に
新らしくモダンに見えた家も
今はひどく古びてその面影はほぼない。
あれほど大きく感じていた幼馴染の家も、
小さく、ちんまりとしている。

我が家があった界隈は人影もなく、
土曜日というのに子どもの声もしない。
まるで死んだように静かな街並みは
50年以上の歳月を感じる。

家のすぐ横は
国分寺遺跡で
本格的な発掘、保存研究が始まったのは
わたしが二十歳を越えてだいぶ経ってからのことと記憶する。
子どもの頃にあった街並みのちょうど半分は
遺跡保護のためにそっくり市で買い上げたのか、
今は元の更地となっている。
覆い茂る雑草地が
まるで祖父が買った昭和30年を彷彿するようで、
時代は巻き戻ってしまったかのようだ。

幼馴染の家も、初恋の先輩の家も、
陽気な妹がいる同級生の家も、邸宅だった商社勤めのあの家も今は跡形もない。

頭の中にはそっくりその光景があるのに、
目の前には雑草の生えた野原が広がっている不思議さ。
我が家も小さく古びて、
あれだけ丹精して手入れをした庭も
荒れ果てていた。

花壇には季節の花が咲き、柿の木、ボケ、カイドウ、ツツジ、さつきがあった。
庭は小さな小宇宙で、
庭の手入れは初夏と秋口の風物詩だった。

その日ばかりは母屋も2階屋も全員が
雑草をむしり、植木を整える。
都会育ちの母は突然顔を出す毛虫や芋虫、みみずに声をあげ、幼いわたしも手伝って1日がかりで手入れをする。

そのほかに季節ごとに専門の植木屋を入れ、
10時と3時にお茶とお菓子を出すのは、
嫁である母の仕事だった。
父や祖父にない、無口で職人気質の植木屋が黙々と菓子を食す様子が珍しかった。
切り落とした枝を丁寧に片付けて
荷台に積み込むとまた半年後にと
頭を下げて去って行った間隔がやがて一年後とのび、やがてその姿を見なくなっていった。

さつきは毎年花をつけず、
枯れて朽ちた枝が重なって、華やかだった庭も雑然としていった。祖父が亡くなってからは毎年庭への投資は減り、
池も、杜若も菖蒲も季節の花は少しずつ自然に戻っていった。
丹精していた薔薇も野薔薇となり、
素人手では手に負えない草木は駆逐されていった。

家から遺跡にまわり、七十の塔跡も見る。
その昔三億円事件の車が乗り捨てられた
裏寂しい空き地に今でもどっしりとした銀杏の大木が見える。

遺跡を越えて坂を上がれば
通った幼稚園と小学校があり、
中央鉄道学園跡には高層マンションが建ち並ぶ。

両親が家を手放して
30年は経つ。
家並は変わり、知った表札も少なく、
人が住まなくなった家は更地になり、小さくて洒脱な白い家が並んでいる。ガレージには外車があり、雑多な空気感に騒がしい餓鬼ども走り回っていた面影はまるでない。

原野の中の一軒家から、
子どもが溢れる庶民の町内を経て
幾度となく人と家が変わり、
祖父がいた痕跡は
1ミリもない。
祖父はおろか、父もわたしの痕跡もなく、
今の国分寺は
知らない顔をした他人の街となったのだ。

帰り際、遺跡の遠く西北を見ると
東芝の北府中の建物がある。あの白い塔は確か30年前程からあったと記憶するが、
彼の地に東芝が初めて建ったのは昭和15年というらしいから、
祖父の代わりに百年近く国分寺を眺め、移りゆく人々の暮らしを静かに見つめていたに違いない。

東芝のこの白い塔も東芝自体もなくなるという構想もあると聞いた。
もう次の世代の新しい景色が
誰かの机上にあるやも知れぬ。

目を瞑れば遠い夏の日に、
駄菓子屋前でアイスキャンディーにかぶりついていた友人の顔が浮かぶ。
よく日焼けした茶色の顔に汗が滲み、夢中で採取した虫の話に興じる顔。
そんな微笑ましい子どもたちの顔を
わたしは最近見ていない気がする。

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