少子化問題の最終的解決(高等教育の廃止)を考える

 筆者はこれまでも何度か少子高齢化と人口動態についての考察を繰り返してきた。経済系の指標と比べると人口動態は安定性が高いので、長期的なトレンドを予測する上で使い出が良いことも理由の一つである。

 令和になってから日本の少子化は前代未聞の水準まで加速している。何が恐ろしいかと言うと、一定の割合で人口が減少しているのではなく、人口減少のペースがどんどん上がっているのである。前回の記事では少子化アクセルと読んだ。
 
 この現象は日本人が子供嫌いだとか、岸田政権がアホだからという理由で起きているわけではない。むしろ世界的に見られる現象だ。以前は少子化は特殊合計出生率が1.5近辺で底を打つと思われていたのだが、それが間違いで、実は底なしであることが分かってきた。隣国の韓国の出生率はここ数年で0.7にまで下降した。台湾や香港といった地域でも似たような水準だ。中国東北部に至っては韓国よりも低い可能性が高い。信じられないことだが、日本はアジアの中では比較的子供が多く生まれている方である。

 東アジアだけではなく、欧米でも出生率は下がっている。子供が多いとされるフランスですらじわじわと出生率は下がっている。おそらく移民の導入も付け焼き刃に過ぎないだろう。イスラエルという例外を除けば先進工業国は底なしの少子化に襲われており、東アジアは単に移民が少ない分わかりやすくなっているにすぎない。

 というわけで21世紀の少子化は前代未聞の領域に突入しているのである。

少子化と教育コスト

 今までも散々指摘されていることだが、少子化の原因についてもう一度確認しよう。少子化が進行している理由は単純に子供のコストが高くなったからである。

 近代以前の暮らしは現在よりも遥かに単純だった。子供は10歳にもなれば家の農業を手伝い、貴重な労働力となった。女性は若くして嫁入りし、ひたすらに子供を生み続けた。子沢山は幸福の象徴であり、女性の社会的な達成は子供を産み育てることとされた。

 ところが近代になると子供のコストが高くなってくる。その最大の原因は教育である。以前の記事でも書いたのだが、国家の経済水準の上昇と最も強い相関があるのは教育水準である。途上国支援の文脈でも教育は最重要とされている。

 ところが、教育コストは経済が発展するにつれて経済成長のペースを上回る速度で上昇していく。これは一見奇妙だ。文明の発展は常にコストの減少を招いてきたからだ。アメリカまで行くコストや、結核を治療するコストは、100年前に比べて大幅に下落しているはずである。

 教育コストが下落しない要因は教育産業の生産性の低さにある。自動車であればボタン一つで大量生産が可能だが、教育はそうはいかない。これは介護のようなケア労働も同様である。

 教育だけではない。子育ても同様に機械化に不向きだ。技術革新が進んだ結果、社会に占めるケア労働の割合は更に上昇している。21世紀の先進国において「人間に関わる仕事」の負担はどんどん重くなっていくはずだ。

 これは女性の地位の上昇、というより厳密には変化によって更に加速されている。近代化が進むとともに女性は良い教育を受け、社会で活躍することを志向するようになる。すると、子供を産み育てることへの比重は相対的に低くなっていく。先述の通り文明が進歩しても子育てのコストは下落していないので、機会費用はどんどん大きくなっていくだろう。

 これらをまとめると、技術革新が進んだため教育や育児といった生産性の低い産業のコストが相対的に大きくなっているということが言えるだろう。

教育と自己実現欲求

 もう一つ、教育には負の効果がある。高等教育を受けたものは一般に働き始めるのが遅く、その分ロスが発生する。さらに、高等教育を受けた人間は思考能力が長けているため、どうしても自己実現欲求が高くなってしまうということだ。言うならば、Z世代化してしまうのである。

 これは高学歴難民問題とも密接に関わっている。高学歴難民の多くは大学院博士課程を出た人間だ。学術的に深い領域まで極めた人たちと言えるだろう。ところが彼らの能力と才能は実社会で需要がないため、彼らの多くはむしろ新卒よりも条件の悪い職場で働くことになる。ここまで極端ではなくても、高等教育を受けた人間にとって「つまらない」と感じる仕事は多いのではないか。

「過剰教育リスク」については今まで議論がなされないままだった。しかし、高学歴難民問題や東大卒不幸論争に見られる原理の中に過剰教育が不幸と社会的ロスを招くという事態は絶対に存在すると思う。確かに「知」に触れるというのは崇高な事かもしれないが、普通の人が生きていくのはもっと現実的な世界だ。大学の数学や物理を理解する能力はサラリーマンには不要だし、むしろここまで賢くなるとサラリーマンの仕事に身が入らなるかもしれない。

 社会の高学歴化が進む一方、需要が増大するのはどちらかというと対人スキルを要するケア労働の方だ。となると、日本社会は過剰に高学歴化しているという懸念が拭えない。高等教育を受けたものは自己実現欲求が強く、貴重な若い時代を自分探しに使ってしまう。

 現在はメディアなどが発達し、子育てのリスクを人々が過剰に見積もってしまう時代である。昔であればもっといい加減だったため、子育てに関するコストはここまで高くなかった。子育てよりも魅力的な活動も社会には沢山存在する。子育てはコストばかりが増大し、子育てに変わる魅力的な活動が多数存在すると考えれば少子化は必須だろう。

 戦前の知識人(特に女性)を想像してみよう。子育てに精を出している姿よりも文筆活動で自己表現に打ち込んでいる姿が思い浮かぶのではないか。令和の日本は皆が知識人になってしまったために、知識人のような人生観が支配的になってしまったのだ。要するに、私達は賢くなりすぎたのだ。

高等教育を廃止しよう

 というわけで、少子化問題を解決するにはかなりドラスティックな方法が必要になる。それは高等教育の廃止である。

 この日本では大学教育は全廃され、普通の人は高卒で就職することになる。すると大学の学費がかからなくなるし、働く期間が4年前倒しになるだろう。浪人も存在しなくなる。これがコストの削減に貢献するのは明らかだ。

 さらに社会に出るのが早くなることで、婚期も前倒しになるだろう。現在の日本は安定した地位についた頃には年齢的に子供が難しくなるというパターンが多いが、この場合はより婚活が前倒しになることで「売れ残る」男女は現在よりも少なくなる。

 大学教育が無くなることはむしろ企業にとってはプラスかもしれない。大学教育を受けると仕事を選り好みしたり、自己実現欲求が強くなる傾向が見られる。今後の日本に求められるのが単純労働力であることを考えると、大学教育は不必要と言えるだろう。

 ただし、この社会で読めないのは中学受験や就活の激化である。現状の受験戦争はより良い職業へのイス取りゲームという性質を持つため、アッパーミドル層は競争を辞めないだろう。したがってサピックスのような教育機関は依然として残ってしまう。これの対策は単純だ。受験戦争に振り向けるエネルギーを司法試験や公認会計士試験に振り向ければ良い。医学部医学科はこの段階でも残るだろうから、そちらの受験戦争は健在だろう。

 中学受験や高校受験はコストの増加に繋がるから、学校群制度を導入すれば良い。偏差値の高い子どもは中高生の段階で医学部受験または司法試験や公認会計士試験を目指して塾通いをすることになる。うまく行かない場合は高卒で民間企業に就職するのが普通となる。

 女子教育の撤廃も重要だ。なぜなら教育を受けない結果、キャリア追求よりも家庭の方に相対的に関心が強くなることが想起されるからだ。この社会においても三大国家資格の受験戦争は存在するだろうから、これらの資格に女性が就くことを禁止すれば良い。家庭や少子化という文脈においては基本的に女性の学歴と収入が上がるほど結婚は難しくなってしまう。これは大学院博士課程を出た人間が単純労働に就きたがらないのと似ているかもしれない。理論の上では「選り好み」ということになるが、現実問題として心理的に割り切れるものではないだろう。

 こうした理想社会を建設すれば少子化問題は解決する。普通の人間は高卒で就職する。受験戦争は抑制されるため、塾通いのコストはかからなくなる。高等教育で無駄な批判精神を学ばなくて済むため、その分目の前の仕事に打ち込めるようになる。早く就職するため、その分婚活に割ける時間も増えるし、子供も沢山作れるようになるだろう。

 女性の社会進出は抑制されるため、今までキャリアに向けていたエネルギーを家庭に向けるようになる。女性の婚活にとって若さはプラスとなり、学歴や収入は事実上マイナスになるので、この世界の女性は現在よりも遥かに結婚しやすくなるだろう。また、女児の教育費がかからなくなるので、その分子供のコストは浮くことになる。

 こうした対策を徹底すれば必ず少子化は解決するだろう。現代人は役に立たない大学教育と受験戦争にエネルギーを掛けすぎなのである。こうした「低学歴化」政策を強制すれば、子育てのコストは低下し、子育てに費やせる時間は長くなる。こうして人口問題は解決していくだろう。

あまりにも非現実的

 さて、このような社会政策が実現されることはあるだろうか。もちろんありえない。この発想はポル・ポトそのものだろう。ポル・ポトは「知識のない良さ」を礼賛し、教育を受けた人間を皆殺しにした。それと何ら変わることはない。

 東大卒が不幸になったり、大学院博士課程を出た人間が悲惨な運命をたどることはしばしば指摘される。これらの背景に存在するのは過剰教育リスクだ。賢すぎると動物としての生存能力はむしろ下がってしまうのだ。大柄過ぎる個体が生存に不利なのと同様に、賢すぎても動物としては劣等となるのである。

 確かに人間の知能は高い。しかし、それは動物としての人間の性質の一つに過ぎない。ジャングルでサバイバルをしてみれば、ゴリラやチンパンジーに比べて人間が優位にあるとは言い難い。頭が良いからといって、サバイバル能力が高いわけではないのだ。

 生物学的成功は子孫を残すことにある。近代以前の人類は技術革新の結果、人口密度を増加させてきた。ところが産業革命によって人類は人口の増大から一人当たりGDPの増大の方向に舵を切った。これは生物としてあまりにも特異である。そしてあまりにも賢くなってしまった結果、人類は子供を作るのを止めてしまった。生物としての進化の袋小路に差し掛かったと言えるかもしれない。現在の人類は知能があまりにも発達しすぎてしまった進化的ミュータントであり、石炭紀の巨大トンボや白亜紀の巨大アンモナイトのような立ち位置なのかもしれない。

 人類は賢くなりすぎた結果、生物としての成功に興味を持たなくなってしまった。だから賢い国ほど人口が急減している。なんとも単純な理屈である。賢くなりすぎた人間は知識の習得と自己実現に人生の大半を費やすので、子供を生み育てることはおろそかになる。それでも人類は賢くなり続ける。人類はどんどん賢くなり、どんどん子供が少なくなり、特異な方向に過剰に進化して滅亡へと向かうのだ。

 筆者が好きなアニメに「新世紀エヴァンゲリオン」がある。ここに登場する進化する使徒である第11使徒「イロウル」は進化を促進されて殲滅された。進化の最終的到達点、それはすなわち「死」だからだ。惜しくも作者が急死してアニメ化されることは無かったのだが、アライブ最終進化的少年という漫画があり、そこでも進化の最終的到達点として「死」が示されていた。私達人類も知性を極限に発達させた結果、自発的に滅亡していっているのかもしれない。

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