灘高校はなぜ超進学校へと変貌したのか

 兵庫県にある私立灘高校、言わずと知れた日本一の進学校である。1960年代に躍進して以来常に東大合格者数トップ5に入る超進学校であり、東大理三や京大医学部の合格者数はほとんどの年で一位である。中学受験の偏差値は関西地区で突出して高く、絶対的王者として半世紀に渡って君臨して来た。
 灘高校はなぜ超進学校として君臨するに至ったのか。それは戦前に存在した一つの学校にルーツがある。

戦前の学校制度は現在と大きく異なり、現在の東大教養課程に相当する旧制一高の入試が現在の東大入試に対応する存在だった。全国の様々な名門旧制中学の受験生たちは切磋琢磨し、一高の入試に挑んでいた。
 では旧制中学のうち、多くの生徒を一高に送り込んだ学校はどこであったか。以下は1934年から1942年の旧制一高の出身中学ランキングである。

1 府立第一(日比谷) 430
2 府立第四(戸山) 234
3 府立第五(小石川)207
4 神戸一中(神戸)130
5 府立第三(両国) 120
6 東京高等師範附属(筑附) 115
7 府立第六(新宿) 87
8 府立第八(小山台) 70
9 湘南 61
10 麻布 56

 トップテンは一つを除き全て関東圏の旧制中学である。その中で唯一地方からランクインしているのが第4位の神戸一中である。
 近くに京大阪大がある大阪府や京都府の生徒はわざわざ東京まで出てきて一高に進学しようとはしなかった。それに対し、兵庫県は地理的理由で京大阪大に進むよりも東京の一高に進学する傾向が強かった。そのため関西圏で唯一上位にランクインしていたのである。
 もし神戸一中がそのままの形で存続していたら、引き続き日比谷や戸山と並んでランキング上位校として君臨していただろう。しかし邪魔が入ってそうはならなかったのである。

 1949年に6・3・3制が導入されると神戸一中は第一神戸高等女学校と合併し新制神戸高校へと改組される。しかしその際に小学区制が導入されたため、神戸一中に通っていた優秀な生徒の多くが神戸高校からはじき出される形になった。こうして神戸高校は戦前の神戸一中の進学実績を引き継ぐことができなかった。
 行き場をなくした優秀層を無試験で受け入れたのが近くに位置していた灘高校である。それまで神戸一中に通っていた生徒たちは一斉に灘高校に入学し、いわば灘の地に第二の神戸一中を再建したのである。
 それまで勉強というよりも柔道の学校として知られていた灘は瞬く間に実績を伸ばし、1950年代にはすでに関西トップ私立の座を不動にした。
1960年代には東大合格者ランキングトップ10に食い込み、1968年についに日比谷高校を抜いて東大合格者ランキング第一位に躍り出る。

 当時の灘高校は現在と違って非常にスパルタな指導が行われていたようだ。全国に先駆けて数学を前倒しで勉強する中高一貫カリキュラムが導入されたことも躍進を加速させた。現在の中高一貫校の東大進学率の高さはこの辺りを起源としているのである。

 かくして1960年代以降、一貫して灘は超進学校の座に君臨している。優れた教育カリキュラムなど、いろいろ躍進の理由は考えられるが、最大の要因は灘が神戸一中の遺産を実質的に継承したことにある。超進学校としての灘のルーツは旧制灘中学ではなく神戸一中にあったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?