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人類の経済成長について、土地・資本・労働力のバランスの観点から考察する

 経済学で生産の三要素と呼ばれる存在がある。それは土地・資本・労働力だ。この3つは経済活動に不可欠の存在であり、3つのバランスによって人類の経済史は大きな影響を受けてきた。近代以前と現代の先進国の経済活動の違いもこれによって説明することができるし、私が少子高齢化が恐れるに足りないと思っているのも三要素のバランスが理由である。

土地・資本・労働力って何?

 そもそも土地・資本・労働力とは何を指すのか考えてみよう。

 土地とは一般的な不動産の概念に加えて、その土地に付随する自然状態や天然資源をも指す事が多い。土地を沢山必要とする産業の典型例は農業や天然資源産業である。

 資本とは簡単な話が「お金のまとまり」だ。しかし、現代の経済活動は複雑なので、様々なものを資本に換算することができる。会社の持つ生産設備・本社ビル・オフィス機器も全て資本だ。資本を沢山必要とする産業の典型例は重工業や先端産業だ。

 労働力は人々が働く労働の総量を指す。労働力を沢山必要とする産業は古代の土木工事とか、近代の女工哀史で描かれるブラックな業界だろう。

重要なのは希少資源の方ではないか?

 しばしば産業構造を考察する時に労働集約型や資本集約型といった言葉が使われる。しかし、国家全体の経済状況を考える上では実は不足している資源にフォーカスした方が的確ではないかと考えている。

 生物学にリービッヒの最小律という法則がある。植物の生育量は栄養素の中で一番量が少ないものに依存するという法則だ。要するに、窒素100・リン酸100・カリウム50であれば植物の生育量は50であり、窒素10・リン酸100・カリウム1000であれば植物の生育量は10となる。

リービッヒの最小律の説明で良く使われるモデル
水位を上げるには窒素を増やすのではなくカリウムを増やすべきである

 経済もこれに似たところがある。限界効用逓減の法則というものがあり、あまりにも資源の量が多すぎると効用は頭打ちになってしまう。例えば病気の億万長者の場合は、資産が更に増えることよりも健康状態が改善するほうが効用は上がるだろう。日本の安全保障上必要な資源は希少な石油であり、水ではない。希少資源が二倍三倍になれば生産量も二倍三倍になるが、豊富な資源が二倍三倍になっても生産量にはほとんど寄与しない。

 このモデルを念頭に、土地・資本・労働力の三要素について論じてみたい。真に注目するべきは希少資源なのだ。

土地不足型経済

 近代以前の世界や現代の最貧国で見られる経済形態だ。

 近代以前の世界はマルサス状態にあった。人口増加率が高く、余剰労働力には事欠かない。仮に生産力が向上しても、すぐに人口増加で打ち消されてしまう。多くは天水に依存した零細農業だったので、大した資本も必要としない。したがって資本と労働力には余裕があるといえる。

 近代以前の世界や最貧国で不足しているのは土地である。少ない土地を巡って極貧の農民が群がっている状態だ。だからこそ近代以前の人類は次々と新しい土地を開拓していき、世界のあらゆるところに人類が済むようになった。石器時代から人類はアフリカを出てチリの南端に至るまで生息域を拡大した。

 こうした経済状況はかなり悲惨だ。技術革新が起きても人々の所得水準は一時的に上がるに過ぎない。すぐに人口が増えて相殺されてしまう。要するに農地が細分化されて終わりだ。江戸時代の日本は少ない農地にあまりにも人が多すぎる状態だったので、家畜の使用が割に合わず、全て人力でこなしていた。

貧困国では限られた土地で大量の貧農が生計を立てている

 近代以前の暴君は民に苦しみを与えたわけではない。人口密度を減らしただけだった。疫病は死者にとっては災厄だったが、生き残りにとっては天啓だった。人口密度の減少で一時的に取り分が増えるからだ。実際にペストの流行で欧州の農民の暮らしは良くなったことが知られている。近代以前の世界では人間よりも土地の方が遥かに重要な存在だった。

 現在でも天然資源の輸出で生計を立てている国はこれに近い。産油国は典型例だ。石油産業はほとんど雇用を産まないので、国民の労働力は必要ない。それよりも大事なのは油田が存在する土地を支配できるかだ。

 土地不足型経済の国は極めて生活水準が低い。理由は労働力があまりにも安すぎるからだ。低賃金で働く人間がいくらでも見つかるので、機械化をするメリットが全くない。こうして最貧国や資源国の一般国民は貧困の中に放置されることになる。湾岸産油国の国民は例外的に豊かな暮らしをしているが、これは人口が希少すぎて余剰労働力が存在しなかったからだろう。

 国家の歳入が国民に依存していないので、この手の国は極めて非民主的だ。日本の人口が半減したら国家の歳入も半分に減るが、資源国は国民が半減しても国家歳入に影響はない。資源国の支配者にとって一般国民はどうでもいい存在なので、支配というより放置される。石油輸出で潤っているはずのアンゴラやナイジェリアの乳児死亡率がアフリカの中でも最悪クラスなのを見れば明らかだろう。

 ちなみに、多くの国で汚職の対象になりやすいのも土地に関連する業界だ。具体的には石油・鉱山・不動産・建設だ。利権さえ手に入れれば自動的に収益が入ってくるため、政治ゲームに勝利することにエネルギーが費やされてしまう。イノベーションが大切な自動車やITといった業界ではこうした噂は少ないだろう。こうした事情からも土地不足型経済の非民主的な性格が浮かび上がってくる。国家間の争いの対象になるのも大半が土地だ。工場や金融資産を取り合う戦争など聞いたことがない。

資本不足型経済

 こちらは工業化の初期段階にある国や、中進国に見られる経済形態である。

 工業は農業や鉱業と違ってそこまで土地を必要としない。工場を建てる土地さえあれば十分だ。実際に工業化が進んでからは人間は都市に密集して住むようになった。僻地に存在する町はだいたい農業か天然資源か漁業で生計を立てており、近代化とともにこうした町は廃れている。とにかく、工業化とともに土地は余るようになった。

 工業化の初期段階にある国は労働力にも余裕がある。農村部を中心に大量の余剰労働力が存在するからだ。中国の農民工を考えれば良い。こうした新興国の売り物は豊富な低賃金労働力であり、これを活用して輸出型の軽工業を発展させるのだ。

 こうした国で不足しているのは資本である。工場を建てたり、技術を導入したり、機械を設置したりするのも資本が要る。そのため、かつてマルクスが資本の本源的蓄積と呼んだプロセスが必要となる。多くの途上国は地道に輸出で稼ぐか、国民に貯蓄を奨励するか、先進国から投資を募るかしかない。中国や韓国ではこの全てが同時に行われ、高い成長率を見せた。中にはソ連のように農民を餓死させてまで穀物を輸出し、資本を獲得した国もあった。現代の先進国では考えられない話だが、ソ連にとっては労働力よりも資本の方が遥かに必要とされたので、経済合理的な政策だったのだ。

ソ連では飢餓輸出で得た資本で工業化が進んだ
重工業が成長する一方で国民の福祉はないがしろにされた

 資本不足経済の国は特有の格差が見られる。戦前の日本もそうだった。大都市で工場が次々と建てられていく中、農村では依然として多くの人が江戸時代に毛が生えた暮らしをしている。首都の新興ブルジョワ階級は現代的な暮らしをしているが、多くの人間は工場でブラック労働に勤しんでいる。こうした格差社会を念頭に執筆されたのがマルクスの資本論だ。都市と農村、ブルジョワと労働者の格差はあらゆる新興国に付き物の社会問題だ。この緊張状態はしばしば暴動や紛争の種になる。

 資本不足型経済の庶民の暮らしは貧しいが、それでも土地不足型経済の国よりはマシである。工業にはある程度の教育を受けた労働者が大量に必要だ。そのため、明治の日本は国民に普通教育を施した。他にも工業化を進めるには様々なインフラを作る必要がある。道路・港湾・発電所・水道・ガス、他にも枚挙にいとまがない。成長を続ける中進国は常にどこかしらで大規模な土木工事が行われている。こうしたインフラを整えるためには兎にも角にも大量の資本が必要だ。東アジアは貯蓄率が高かったため、資本蓄積の上で有利だったと言われる。

労働力不足型経済

 最後は成熟した先進国に見られる経済形態だ。 

 先進国の産業は高付加価値産業だ。自動車・IT・金融・その他の先端産業がメインである。こうした産業も対して土地を必要としないので、土地は余っている。また、先進国は非常に豊かなので資本も豊富に存在しており、一部を途上国に投資してくれるほどだ。

 経済成長が進み、資本ー労働比率が変化するに連れ、今度は労働力が不足するようになる。これが先進国の労働力不足経済だ。先進国に特有の少子化もこれに拍車を掛ける。教育水準が上がると子供にかかる費用が大きくなり、出生率は減少する。

 労働力不足経済で成長を起こす方法は2つしかない。1つ目は移民だ。外国から移民を呼び込んでいる国は全て先進国だろう。それは単に先進国が豊かだというだけではなく、移民をしても確実に仕事が見つかるからでもある。特に高技能の移民は喉から手が出るほど欲しいはずだ。

 もう一つの方法はより一般的だ。それは技術革新である。先進国は豊富な資源を技術革新に投入し、一人あたりの労働生産性を上げるように努力してきた。飛行機やコンピューターのような発明品はもちろん、一次産業も機械化が進み、ほとんど人手を要しなくなっている。日本では農家の高齢化が問題視されているが、言い換えると高齢者のみの世帯でも農業ができるようになったということだ。江戸時代の農民からするとビックリだろう。

 先進国は労働力が希少であるがゆえに常に技術革新を進め、年2%のペースで経済成長を続けてきた。途上国にはこうした図式は当てはまらない。人口余剰の国では人件費が安すぎて機械化のメリットが薄い。途上国も常に進歩しているが、それらは先進国の科学技術のおこぼれを得ているにすぎない。スマホも抗生物質も全て先進国で発明されたものであり、途上国は天然資源と低賃金労働力を先進国に売って文明の利器を輸入しているのだ。

先進国の産業はオートメーション化が進み、
一人あたりの生産量が多い

 急速な経済成長を果たした国は激しい少子化を経験している。これは教育水準の向上に対する原因でもあり結果でもある。マルサス状態から脱却するに連れ、国民の生活水準は急速に増加した。こうした変化は機械化と技術革新をどんどん促し、経済成長の好循環を産んだ。

 労働力不足型の経済の国は概ね民主的だ。というのも、労働力不足型の国では国民は極めて貴重だからだ。極端な例を挙げると、国民の半分を虐殺することは土地不足経済の国ではどうということがないが、労働力不足経済の国では自爆行為に等しい。自動車・IT・金融といった先進国型の産業は腐敗や権威主義との相性が非常に悪く、民主的で公明正大な政府の下でないと発展することができない。少数の国民にできるだけ良い教育と福祉を提供し、自由に意見交換をしてもらいながら技術革新に取り組むのが先進国だ。

人類史のこれまでとこれから

 人類の歴史において、経済上の希少資源は土地⇒資本⇒労働力、というように移行してきた。未開発の国は必ずと言っていいほど零細農業に頼っており、中世さながらの暮らしをしている。こうした最貧国は一次産品しか輸出可能な製品がない。経済が成長し始めると今度は工場やインフラが次々と建設され、低賃金労働力が投下される。経済が完全に成熟すると労働力が不足し始め、技術革新に注力するようになる。

 土地不足型経済の政権はしばしば国民にとって残酷だ。こうした国では経済成長は土地生産性を上げることに注力される。したがって一般国民の福祉はないがしろにされ、低賃金でこき使われることになる。アフリカの貧困国の多くは植民地時代の一次産品の輸出で生計を立てている。こうした産業は先進国と繋がった少数のエリート、先進国から呼んだ技術者、一定程度の単純労働力が存在すれば事足り、残りの国民は放置される。エリートは首都と鉱山地帯のみを押さえていれば十分だ。アーサー・ルイスはこれを「二重経済」と呼んだ。農村には学校も道路も作られず、しばしば反乱軍の根拠地となる。アフリカ国家の脆弱性の根源だ。

アンゴラでは石油収入で潤うエリートと放置されるその他の国民は
まるで違う国の国民のように暮らしている。

 資本不足型経済の国はこれよりマシだ。国家主導で近代化が行われ、学校や道路が次々と建設されていく。こうした国は大抵が開発独裁国家だ。強力な国家権力が国民の細部に至るまで支配し、労働力として活用する。中国やソ連が典型的だ。ただし、国家にとって真に重要なのは設備であって、国民ではない。したがって技能を持たない一般の国民は残酷な仕打ちを受けることがあった。独ソ戦の初期のソ連軍は2人に1つしか銃を補給しなかった。この国では兵士より銃の方が貴重な存在だったのだ。こうして悪名高いソ連軍の人海戦術が生まれた。程度の差こそあれ、太平洋戦争の日本軍や朝鮮戦争の中国軍にも同じ要素が見られる。

 労働力不足型経済の国では国民は概していい暮らしをしている。一人あたりの資本が豊富だからだ。移民政策で労働力を増やす国もあるが、それだけでは足りないので、一人あたりの生産性を上げるような努力が求められる。したがってこうした国では国民は大切に扱われる。良い教育を受けているので聞き分けも良い。先進国の安定した政治体制の元で高付加価値産業は前進していく。先進国の発展は高賃金の原因でもあり、結果でもあるのだ。

 もっとも、最近の世界全体の経済成長は目覚ましく、少子化の国が全て先進国とも言えなくなっている。東欧・旧ソ連のEU非加盟国がそうだ。これらの国は未だに中進国のままである。絶対的な生活水準は上がったものの、先進国との差は埋められていないようだ。どうやら単に人口が減少するだけではダメらしい。今後このような国は増えるものと思われる。タイやブラジルでも少子化はどんどん進んでいる。中進国が少子化で進行すると以前のような政情不安は少なくなるだろうが、高付加価値産業が育成できるかは別なのだろう。

 今後の日本は少子化でますます人手不足が進むと言われている。ただし、私はこの事態を楽観視している。労働力が不足すればますます技術革新へのインセンティヴは増していくだろう。若者は大切に扱われるようになり、少年犯罪は激減した。高齢者の活用も進んでいる。これからの日本は一人ひとりの国民がいかに生産的で長く働けるかに焦点が当てられるはずだ。事業者に優しい国から労働者に優しい国へと変貌していくのだ。最近の企業のホワイト化も被用者の立場が強くなったことの現れかもしれない。

 一方で欧米の移民国家は必ずしも明るくないだろう。労働力の増加は確かに経済面ではプラスなのだが、国民の福祉に繋がるかは別問題だ。こうした国では失業率が高く、教育水準が低い貧困層を抱える。移民がスラム街に密集し、犯罪を繰り返している国も多い。アメリカでは好調な経済と強い社会不安というアンビバレントな事態が起こっている。近年ではアメリカが新興国のような二重経済の国へと変貌しているという主張もある。

移民労働力は新たな貧困層を作り、人件費を押し下げる

 なお、成長が全く期待できない国はロシアだ。この国はソ連時代の工業化政策を諦め、資源輸出国へと後退した。ロシアを支える産業は石油・ガス・金属であり、これらの利権はプーチン政権の関係者に独占されている。国民は余剰労働力なので、戦争やアル中で多少死んだところで痛くも痒くもない。人口減少に強いとも言えるが、政府は相変わらず腐敗と専制にまみれている。ロシアの政治腐敗度は紛争国を除くと最悪レベルなのだ。ロシアから技術革新が生まれることはなく、生活レベルも低いままだろう。

 



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