総合型選抜はいらないと思う理由

 最近はすっかり定着したのが総合型選抜だ。要するにAO入試である。学力試験は科さないか、特定の科目だけに留まっている。評価される項目は面接や課外活動だ。野球部で甲子園に出場したとか、意識高い系の国際活動に精を出したとかである。

 こうした入試スタイルは批判にさらされることが多い。AO入試は「アホでもOK入試」と揶揄されることもあった。一方で受験勉強という型にはまった尺度ではなく、多様な人材を評価できるという意見もある。どちらが正しいのだろうか。

 筆者は従来型の日本社会のレールを前提にすると、このような総合型選抜はいらないと考えている。総合型選抜に関する議論はいろいろ存在するが、筆者が総合型選抜の必要性の乏しさに関して注目するポイントについて論じてみよう。

1.就活と二重になる

 日本社会のレールにおいて実はAO入試に相当する関門は存在する。それは就活だ。学科試験ではなく、その人のこれまでの人生で成し遂げたことを総合的に評価する最後の機会だと思う。留学経験があるとか、体育会系で実績を上げたとか、単に顔がいいとか、他にも評価点は沢山ある。就活のシステムを考えてみると、AO入試そのものだ。

 しばしば一流企業に内定した東大卒の人間が漏らすことなのだが、早慶やMarchの出身の同期は何らかの強みがあることが多い。英語や体育会系がいい例だろう。ソルジャー枠がある大企業もあるにせよ、優良企業の場合は学生は同じ基準で選抜されているのだから、学歴で劣っている分何らかの強みを持っている人間が多いのは当然だろう。逆に言うと東大卒の「特技」は学歴ともいえる。会社にもよるが、コネ入社も当然存在する。こうしたコネ入社は会社にとってそれなりに有用であることもあるため、一概に否定することはできない。

 こうした就活の選抜システムはAO入試と極めて近い。となると、わざわざAO入試をやる意味があるのか?という疑問が湧いてくる。

 ちなみに長銀を半年で辞めた林修がいい例だが、初手で一流企業に入っていると、仮に短期離職であっても多少の箔が付く。これもAO入試としての就活の機能かもしれない。

2.学歴格差を助長する

 総合型選抜が広く取り入れられると学歴カーストは緩和されるという見方がある。確かに学力面ではそうなのかもしれない。しかし、これが本当に学校間格差を解消するのかは不明だ。

 例えばスポーツや芸能で名を挙げた人間は総合型選抜で採用される可能性が極めて高い。現に最近の有名人は軒並み早慶やMarchに通っている。となると、その世代の有能な人間は軒並み有名私立大学が独占することになる。結局、総合型選抜という別の形で学歴格差が生産されているだけなのである。

3.公正さを失わせる

 社会格差の是正に関する終わりなき議論に筆者は深入りするつもりはない。貧困家庭の方が総合型選抜は不利だとか、実は東大受験に関しても富裕層が有利だとか、いろいろな論点が存在するが、こうした議論は置いておく。筆者が注目したいのはむしろ精神的な側面である。

 学歴は日本人がペーパーテストで選抜される唯一の機会だ。大学に入ってしまえばあとは総合型選抜の世界になる。したがって、大学入試を一般選抜にすることには一つの美学があった。全員が同じ入試を受け、国籍も性別も出自も関係なく点数で評価されるということにフェアネスが存在した。富める者も貧しき者もペーパーテストの前には平等だった。このことによる精神的な効用は大きいだろう。

 総合型選抜の場合、こうした物語性は失われる。折角頑張って一般入試で入ったのに、学内には無試験で入学した者ばかりでは、勉強してきた自分が罰ゲームを受けたかのように感じるだろう。しかも入ってからは総合型選抜の世界なので、一般受験組の優位はなくなる。こうなると、勉強を頑張ろうという意欲は薄らぐ。

 東大にも推薦組はいる。彼らは別に学内で変な扱いを受けていることはなかった。その理由を考えてみると、彼らは全学生の3%に過ぎないマイノリティであるという理由が浮かぶ。あくまでメインは一般入試にあるため、推薦組が存在してもそこまで問題にはならない。ところが総合型選抜が大半を占めるような状態になると、もはや学力に基づいて選抜するという学歴の基本原則が崩壊してしまうだろう。コネ入学も横行するかもしれない。

 総合型選抜は本質的に理不尽な世界だ。旧来であれば、マイノリティは総合型選抜では排除されてしまうので、学力一本勝負の世界に行かざるを得なかった。最近はアファーマティブアクションでマイノリティはむしろ登用されるようになったが、この場合も救済される弱者と救済されない弱者の基準に理不尽さが生じるようになった。日本の大企業で女性は理不尽に排除されてきたが、最近はむしろ理不尽に出世するようになった。どちらが良い悪いではなく、総合型選抜は一般入試のようなフェアネスを共有することはできないのだ。

なぜ総合型選抜は増えたのか

 これらの要素が存在するにも拘わらず、なぜ総合型選抜は増加の一途をたどっているのだろうか。それは少子化で大学側が学生の確保に必死だからだと思われる。その証拠として、上位校ほど総合型選抜に後ろ向きだ。これらの学校は優秀な生徒の獲得に困らないので、わざわざ総合型選抜を導入する理由がない。

 要するに、大学受験のレベルが下がっているのである。優秀な学生が総合型選抜に移行しているのではなく、単純に優秀な学生が減っているので穴埋めとして総合型選抜が作られていると考えた方が実情に合うのではないか。日本全体が若年層において売り手市場になっているので、学生はわざわざ手間のかかる学力試験はやりたくない。例えば一般受験で阪大に行くなら総合型選抜で慶応に行った方が楽だろう。学生はそちらを選ぶことに利益があるので、阪大は総合型選抜を導入することになる。

総合型選抜に相性の良い学部はどこか

 総合型選抜を導入してもあまり問題のない学部も存在するだろう。例えば理工系の総合型選抜は一定の意味があるはずだ。理工系の場合は入ってからも勉強をし続ける必要があり、ある意味で大学の学部入試は高校入試のような扱いである。一般入試で余計なエネルギーを使うよりも、入ってからの勉強を頑張ってほしいという考え方は理にかなっている。

 一方で総合型選抜を導入しても社会的に利益を生まないのではないかと思うのは文系だ。文系の場合はブランド大学に入ることに意味があると言っても過言ではなく、入ってから評価されるのは総合型選抜の要素である。そのため、文系の入試は一般入試オンリーにした方がフェアなのではないかと思う。実際、司法試験や公認会計士試験は試験一発勝負だ。文系というのは評価が曖昧な世界であるからこそ、入口くらいは画一的な選抜があっていい。そこに人種も性別も生まれも容姿もコミュ力も関係なく、点数の前に平等なのである。



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