日々の日記 2

文学をちょっと読んでみようとなったときに、まず村上春樹が来るという状況に納得がいかない。それは村上春樹が提出した内容をきちんと受け取れる読者が育っていないからである。つまり、20代の若者はなんとなく、おしゃれ、とか、こういうのに憧れる、とか、それくらいで終わらせているけれど、カフェで読むことが若者らしさだとか思われているけれど、私はもう少し先に行ってほしいと思う。これはサリンジャーを読めとか、ヴォネガットを読めとか、そのレベルの話ではない。村上春樹の小説はほとんど海外文学であり、これが読める読者は海外文学が読めるはずなのである。村上春樹がノーベル文学賞の候補に挙がっているというニュースはうるさいくらい流れてくるけれども、ノーベル文学賞を受賞した作家はみな晦渋である、ということはない。最近文庫化した「百年の孤独」を書いたガルシアマルケス、ブッカー賞を二度受賞したJ.M.クッツェー、短編の女王アリスマンロー、など、これらの作家は文学的な厚みがありながらもゴールは高すぎず低空飛行で読んでいける。そのあとに少しだけ現代文学と20世紀文学、古典文学の知識を得ることができれば、その広すぎる世界に打倒されるだろう(私もまだまだここで格闘している)。そうすると、春樹の眺め方が変わってくるはずである。もっとも、20代で文学を理解しようとするのなんておこがましいのだけれど、その姿勢をとれるようになるだけでずいぶん違うのである。
村上春樹はいつだかのインタビューかあとがきかで、人々がカラマーゾフの兄弟を読んだことのないのを嘆いていた。ドストエフスキーは19までに読まないと効果がないのだという。SNS、映像文化に染まった若者はカラマーゾフを「読破」してくれるのだろうか。

注  ここまで大げさに書きましたが、私はドストエフスキーが嫌いなのでカ          ラマーゾフを読んだことがありません。同じ土俵でございます。

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