見出し画像

韓国博物館#01. 漢城百済博物館〜百済の歴史と文化を知ろう〜

韓国の歴史ドラマが日本でも放送されるようになって久しいですよね。
昔は『チャングムの誓い』『トンイ』『イ・サン』など朝鮮時代が舞台となっているドラマが多かったですが、最近は百済の時代を題材としている作品もたくさん見られると思います。

ということで、今回は百済の歴史や文化に興味のある方におススメの博物館をご紹介したいと思います。

画像1

ソウルの松坡区(송파구)に、漢城百済博物館(한성백제박물관)があります。ロッテワールドからも近いです。

2年ほど前に訪問したので、その時の情報を参考にご紹介します。


百済はどんな国?

百済は今から約2000年前に現在のソウルが位置する地域に建国され、その後660年に扶余(부여/ブヨ)という地域で滅びるまでの678年間、朝鮮半島において発展しました。高句麗、新羅とともに朝鮮半島に三国時代をもたらした国であり、なかでも最も華やかな文化が開花した国でもあります。

百済が治めていた漢江流域では早くから鉄器文化と農耕文化が栄えたため、人々は他国と比べて豊かな生活を送ることができ、また、華やかな文化・芸術も発展しました。漢江が西海と繋がっていたことで百済は造船技術を発展させ、北東アジアにおける海上交易の中心地としても君臨したと言われています。

近肖古王が統治した4世紀頃には、百済は最も広い領土と外交力を持つ強大な国となっており、その領域は朝鮮半島の北は大同江(대동간/テドンガン)、南は蟾津江(섬진강/ソムジンガン)までに達したとされています。また、その影響は日本の九州地方や中国の遼西地方、山東地方までに及びました。

(漢城百済博物館の日本語パンフレットより。多少言葉を修正しています)


◆風納土城(풍남토성)

画像2

博物館に入ってすぐに現れるのが、この風納土城(풍남토성)です。

一部を復元したものですが、かなりの大きさです。

風納土城の城壁は横幅約43m、高さ12m以上、全周は3.5kmにまで及び、城内面積は約878,678㎡だったと推測されています。

非常に高い建築技術を用いて作られたこの風納土城は、250万tの土(15tトラック17万台分)と、年間で200万人以上の作業員が必要となる計算です。このような大規模な公共事業が可能だったということを考えても、百済が強大な古代国家であったことが分かります。


◆漢城の様子

画像3

当時の漢城(ハンソン・한성)、現在のソウルの様子です。

百済時代の漢城は今のソウル南東部にあたる松坡(ソンパ・송파)区と江東(カンドン・강동)区一帯にありました。

写真からも分かるように、百済の正宮は漢江と風納土城に囲まれた敷地(写真の右下)の中心に建設されました。

他にもこの敷地内には宮廷、官庁、王族及び貴族の住居、軍事施設、民家などがあり、土城の周りには主に一般の民衆が住んでいたとされています。百済が最も繁栄していたが4世紀頃には、この都に6万人が居住していたと考えられています。


◆住居の様子

画像4

こちらは百済時代の住居の様子です。

漢江の恩恵を受け、百済は豊かで優れた食文化を生み出しました

蒸したご飯に、キムチ(※)・塩辛といった発酵食品や塩気のあるものを食べていたほか、酒や餅を作ったりもしていました。また、刺身などの魚介類も食べていたそうです。

こうして見ると、現代の韓国料理とあまり変わらない印象を受けます。実際に、現在食されている韓国料理の多くが百済の食文化に由来しているとのことです。

※朝鮮時代中期に唐辛子が伝わるまでは塩、醤油、味噌などにつけたキムチが一般的でした。


◆支石墓群の甕棺

画像5

羅州の新浦里で発掘された支石墓群の甕棺(옹관)です。

この大きな壺の形をした甕棺に亡くなった人を埋葬していました。


◆陶器

画像6


◆金銅靴と環頭大刀

画像7


◆金銅冠帽と金製のイヤリング

画像13


◆当時の船舶

画像8

優れた造船技術により、百済は漢江から西海や南海へ乗り出し、中国や日本と活発に交易していました。


◆七支刀

画像9

古代の樹木崇拝と道教を象徴している「七支刀」は百済が日本へ伝えたとされる鉄製の刀剣で、日本の国宝として現在は奈良県の石上神宮に所蔵されています。

この刀剣は、熱しては叩くという作業を何百回も繰り返して鉄を鍛え、左右に三本ずつの枝刃を作り、金糸で文字を刻み込んで仕上げます。

当時の古代国家において一方の国がもう一方へ刀を送るということは、その地域の支配権を認める両国の信頼関係を表す証であったとされています。そのことからも、七支刀は百済と日本の親善関係を示していると考えられています。


◆百済金銅大香炉

画像10

扶余の陵山里廃寺から出土した百済金銅大香炉は、国宝第287号に登録されています。

仏殿でお香を焚く際に使われたと考えられている香炉です。

本物は扶余国立博物館にて展示されているので、扶余に行かれる機会がありましたらぜひご覧になってください。個人的にすごくおススメです。


屋上からの眺め

画像11

博物館の屋上からの眺めです。

良い眺めですが、冬は風が強くてすごく寒いのでご注意を。

画像12

こちらの写真の右側中央に見える土手が、現在確認できる百済時代の土城の一部だそうです。

展示を見た後に、こうして現存する土城を見ると、なんだか不思議な感覚になります。


◆◆◆

百済は漢民族による最古の歴史書である『書記』を記したと伝えられていますが、残念ながら現存していません。そのため、現在百済の歴史を知る手がかりになっているのは、高麗時代に編成された『三国史記』、そして、中国や日本の歴史書で、百済の歴史や人々の様子に関する記録は決して多くありません。

そんななかで、百済に関する資料や出土品等をまとめて展示しているのが漢城百済博物館です。

正直、国立扶余博物館の方が断然見ごたえがありますが、扶余まで行く余裕がない方はぜひ一度訪れてみてください。(但し、歴史に詳しい方にとっては物足りなかったり、んんん〜?とも思ったりする箇所があるかもしれません…笑)

また、今回は常設展示の様子をお伝えしましたが、特別展もありますので、行かれる際はそちらの方もチェックされると良いかなと思います。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは引き続き、素敵な一日をお過ごしください。

どろん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?