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絵②

高校二年の春。

一人抜けて三人になった美術部は、来年度から廃部することが決まった。



それまでも部として機能していなかったし、コンクールに応募したりだとか、そういう精力的な活動は一切していなかったのだから当然の流れだと思った。

心穏やかに居れる場所が消えていくことには慣れていた。終わりがちょっと早まっただけだとぼんやり考えながら、いつもより時間をかけて家に帰った。




秋。

わたしは何人かの生徒と校長先生と一緒に、県の高校総合文化祭に行くことになった。授業の課題で出され、期限ギリギリまでこねくり回し、半分やけくそになりながら提出した作品がたまたま校長先生の目にとまり、何かのコンクールに出され、知らぬ間に入選していたのだった。

こんな大層な場に出すことがわかっていたならもう少しマシな作品をつくったのに、と少し恨めしく思いながら、パネルに飾られた自分の作品を眺めた。



不思議だった。


額縁の中で静かに佇むその人物は、確かにわたしが生み出したものだった。
洞窟のように薄暗い家で、いつかここから抜け出したいと思いながら描いた、わたしの″願い″そのものだった。

自分が生み出したものなのに、何か意味のあるようなものに思えた。



ぼんやりしながら会場内を歩いていた時、たえず行き交う学生達の波の向こう側の、とある絵と目が合った。


中学生の頃、毎日のように眺め続けたあの″瞳″が、そこにあった。









″好きなことを仕事にするにはお金がかかるよ。実現性の低いものなら尚更ね″


″お金がある人ならそれを追いかけることができる。失敗してもやり直せるから″
 

″でも、そうじゃないでしょ″
″そんなことしてる時間ないよ″


″自分のことは自分でどうにかしてよ″



母に言われ続けていた言葉は、いつからか自分の身体の一部になっていた。



知らず知らずのうちに血が入れ替わり、その日あった楽しい出来事を眠っている間に吸い取られて、代わりに小さな毒を埋め込まれていくような、そんな感覚だった。






大人になるにつれ、息苦しさが増していった。生きたいのか、消えたいのか、わからなかった。


どっちつかずな日々の中で、絵はわたしの心の拠り所で在り続けた。嵐の夜、波に揉まれながら流れ着いた先で見つけた船の灯火のようなそれは、昔よりも強く、あたたかく感じた。


いつまで経っても冷えたままの指先に気づかないふりをして、来る日も来る日も描いた。描いて、描き続けて、海に流し、風にのせて飛ばし続けた。自分がここにいるということを、誰かに気づいてほしかった。

そして、それは届いていた。わたしの描く絵が好きだと言ってくれる人が、水を含んで広がっていく水彩のように、ゆっくりと増えていった。嬉しくて、もっと喜んで欲しくて、眠ることも忘れて描き続けた。ひとつ描くたびに新しい色の絵の具をひとつ貰い、パレットの上で混ぜ合わせ、そこからまた新しい色を生み出すようだった。

そしてそれは、いつの間にかわたしの『仕事』になっていた。







夢を叶えたはずだった。それなのに、虚しかった。



自分がおかしくなっていくのを感じていた。
期待に応えなければ。もっと描かなければ。
そう思えば思うほど、描くことが楽しいと感じなくなっていく自分に戸惑った。


″何もない自分″に戻りたくなかった。ようやく掴んだ居場所を失うことが怖かった。



人より劣っている自分が、人と違うことをして好きなことで食べていくためには、もっと苦しまなければならないのだと思った。それは正しいのかどうかはわからなかったけれど、絵も自分も、指先から離れていくようだった。



だんだんと自分の輪郭がぼやけていく中で気づいた。



わたしは、誰かに救ってほしかっただけだった。



ずっと、そのために描いていた。


本当のわたしは、筆を洗った水のように深く暗く、濁っている。そんなありのままの自分が生み出したものを、誰かに愛してほしかった。



わたしは描くことが好きだと思い込んでいただけで、本当はそうではなかった。





それまでの全てが幻想のように思えて、居場所も、繋がりも、何もかもどうでもよくなった。


本物だと思って努力してきたもの。どんな時も自分を支え、灯火になっていたもの。

偽物のような自分にとって唯一の、確かなもの。

それさえあれば、この先ひとりになっても、どんなことでも乗り越えていけると思っていた。


でも、もう限界だった。













いろいろなものがこぼれ落ちていった。

居場所も、お金も、生きる意味も、何もかも。





それでも最後に手の中に残ったものは、″描きたい″という気持ちだった。




それはわたしの中に残り続けた毒で、今までさまざまな色を生み出してきた最初の一本の絵の具で、本当の願いだった。




誰が何を思おうと、自分の絵を世界で一番愛しているのは自分だった。誰からの評価も気にせず描いたスイカも、憧れの人に勝ちたくて描いた瞳も、バケツの中の淀んだ水も歪んだ指の骨も、わたしがわたしで在り続けてきた証だった。偽物なんて、一つとして無かった。





つむぎ、つむがれてきた糸のさきで会ったのは、描くことを愛してやまない、自分自身だった。指先はもう、冷たくはない。







おわり


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