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もう、どうでもいいんじゃないか。

頭ではわかっていても、どうしようもならない時がよくある。

例えば、テスト前夜の1シーンを思い出して頂きたい。明日のテストでよい点を取らなくてはならない。赤点を取ったら留年してしまう。親に勉強しろと言われる。

と、わかってはいるものの、どこからともなく誘惑が舞い込んできたり、なぜ中断したのかはわからないが、止めてしまうことが度々ある。(いかにも私のことである。)

今日、政治家は利権を求め、報酬の不当な搾取や仕事以外でのスキャンダラスなニュースをよく耳にする。(政治家も悪い💢)
その上、一面を見てか、一方の国民も

「政治家は仕事をしていないから日本はオワコンww」
「俺らの1票なんかじゃどうも変わらん、まじ卍」
「今って総理大臣誰?🤓」

的なことをよくツイッターにて目にする。当たり前だが、「政治」とは政治家のために存在するものでもなく、政治家だけが行うものではない。国民のために行うもので、国民によって作り上げ、行われるべきものである。

「他人事じゃない」「ちゃんと勉強しないといけない」と本当は私(たち)は気づいてるはずで、
オワコンって言って諦めんなし(と言いたいw)(自分にも)

テスト勉強も政治もバイトだって部活だって、本当はやらないといけないとわかってる。ただ、どこからともなく声がしてきて、やらない。そして、「まあ、どうでもいいかあ。」「なんとかなるかあ」と結論を早めてしまうのである。

太宰治の小説に「トカトントン」という短編がある。
これは、主人公が何か物事を本気で取り組もうと決心し、実行している最中にどこからともなく「トカトントン」という金槌で叩く音が聞こえるという小説である。その音を聞いた彼は「もうどうでもいいんじゃないか」と気が滅入るのである。
戦後の暮らしが始まり、「労働は神聖なり」と仕事に打ち込んでいると「トカトントン」女性に惚れ、砂浜でキスをしようと思うと「トカトントン」労働者のデモで真の自由を追及していると「トカトントン」どうにでもよくなってしまうのである。

小林よしのり氏は言う

現実に向き合えば向き合うほど、「トカトントン」と聞こえてくる瞬間は何度もある。わしも「もうどうでもいいんじゃないか」と何度も思った。

彼がいくらイラク戦争の失敗が北朝鮮の核保有に繋がることを叫ぼうと、安保法制は米国追従を強化するだけでなく、日本の自主独立を遅らせる要因になりかねんと批判しようとも、アベノミクスでトリクルダウンは起こらないと言おうと、森友学園問題の責任を転嫁する政権を批判しようとも無駄なのだろうか。結局、それを聞いた国民も「間違っている」とわかっていながらも「まあ、どうにかなるでしょ」と投げやりになってはいないか?

たとえ、10年後、20年後、核戦争が起こると誰かが言っても我々は信じないだろう。仮に起こらなかったとしても耳を傾けやしないのではないか。「なんとかなる」「トカトントンと音がする」と言って逃げてしまうのではないか。

ことが起きてからでは遅い!
やたら批判をしろー!とか、原発はんたーい!とかアベノミクスはんたーい!と叫べと言っているのではなく、何事も意識して自分の問題として捉えることが激動する21世紀を生き抜く術だと思うのである。何が正しくて、何が正しくないのか見極める姿勢が大事で「トカトントン」をいいことに逃げることはやめ(ます)。

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