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至高のクリームパンと、ひとり暮らし。

おいしいものを食べた記憶は、いつもだいたい、しあわせな思い出として残っている。旅行先の温泉街で食べた焼きたてのお団子や、初任給を使って家族みんなで食べた、回らないお寿司とか。

でもひとつだけ、しあわせのほかに、ほんの少しの後悔と一緒に思い出に残っているものがある。ひとり暮らしのときに近所のパン屋さんで買って食べた、「至高のクリームパン」のこと。

今日はそんなパン屋さんのはなし。

大学を出て、大阪のホテルに就職した22歳の頃。引っ越してきたマンションのすぐそばに、パン屋さんがあった。むかしは商店街だった道に面した路面店。道路の歩道に覆いかぶさるように出た白いテント看板に、黒枠の長方形を4つ横に並べたような、ガラスの開き戸。おとなりさんはレトロな散髪屋さんと、最近できたばかりの整体院。

入口のそばには木製のイーゼルに黒板が立てかけてあって、いつもイチオシのパンの名前が書かれている。店に入る前にそれを読んで、さっきまで楽しみにしていたお目当てのパンを忘れ、イチオシを買って帰ることもよくあった。

創業40年のパン屋さんは、とてもこじんまりとしている。横長の店内は、入口を入るとすぐにお会計の場所がある。部屋の中のテレビとソファくらいの距離で。右手には紙パックのコーヒー牛乳なんかが入った冷蔵のショーケースがあって、左手には黒い天板にのったパンたちが並ぶ。

ご夫婦、というよりは、「お父さんとお母さん」のイメージが似合う、ご夫妻ふたりでやっている。ぼくがお店に入るといつも、レジにいるお母さんが「いらっしゃい。今日はやすみ?」と声をかけてくれる。その声に反応して、レジの奥、厨房でパンを焼くお父さんが、ひょこっと顔を出してくれる。お母さんのあたたかい雰囲気はもちろんだけど、エプロン姿のお父さんのにこやかな表情が、そのパン屋さんの大きな魅力のひとつだった。


「至高のクリームパン」は、そのお店でぼくがいちばん好きなパンだ。

メロンパンくらいの大きさで、いつもレジのすぐ前に置かれている。特徴はクッキー生地。デニッシュ生地の上にかためのクッキー生地をのせていて、やわらかさとサクッとした食感のどちらも楽しめる。クリームパンと言うよりはクッキーシューに近いかもしれない。

中にはたっぷりとカスタードクリームが入っている。牛乳とバニラビーンズをふんだんに使った特製クリームは、とても濃厚なのに、それでいてくどくない。2層の生地の食感の違いと、濃いコーヒーが合いそうな甘いカスタードクリーム。バニラビーンズの甘い香りがふわーっと鼻の奥の方で広がる、贅沢なスイーツのような、大満足のパンだった。

「クリームパン焼けてるよ〜」

パンを選ぶのに迷っているとよく、お母さんが声をかけてくれた。そしてセットのように、お父さんがまたひょこっと顔を出してこう言う。

「ソーセージも焼けるから待っててや〜」

ぼくは好きなものができると、しばらく同じものを買い続ける傾向にある。至高のクリームパンを買うときは、一緒に「なが〜いソーセージパン」も買っていた。長さはスーパーのウインナーを4つ繋げたほど。豚肉100%のあらびきソーセージと、マスタード、トマトケチャップを使ったシンプルな惣菜パン。

お父さんとお母さんには、すっかり好みを把握されていた。それもまた、心地よかった。ひとり暮らしのぼくにとっては、ふたりのあたたかい雰囲気はその町の好きなところのひとつだった。

その町で6年暮らしてから、ぼくは引っ越すことになった。

パン屋さんへは、挨拶しに行かなかった。粗大ゴミを出したり、梱包をしたりと引っ越し準備に追われたこともある。でも何より、後ろめたいことがひとつあった。

その町での暮らしの後半、ぼくはそのパン屋さんではなく、近所にできた別のパン屋さんへ行くことが増えていた。だからわざわざ挨拶しに行くのは、なんだか自分を特別扱いしているみたいで気が引けた。今思えばどうしてそんなことが気になったんだろう。きちんと挨拶しにいけばよかったのに。


今日、Googleでパン屋さんの名前を検索したら、お母さんが運営しているブログが出てきた。最新の記事の日付をおそるおそる確認する。お店、なくなってたらどうしよう。

最終更新日は2022年2月15日。

昨日だ。今も変わらず続いているようでほっとした。ただブログに載っているパンの写真を眺めていると、少しだけ胸がおもたくなってきてしまう。最後の日に、店の前を黙って通り過ぎて引っ越し先へ向かってしまったことが、どうしても胸につかえてしまう。



ひとり暮らしには、明るい思い出もたくさんある。なんならたのしい記憶の方が多い。


でもどうしてか、今思い出すのは、甘くて濃厚で贅沢で、それでいてちょっとだけ苦い、お父さんとお母さんが作ってくれた、あのやさしいクリームパンのことだ。

***

今日はメディアパルさんの企画「ひとり暮らしのエピソード」に参加させていただきました。

サークル仲間のささみさんが教えてくださって知った企画。ひとり暮らしはたのしい思い出もたくさんあるんですが、ちょっとだけ後悔しているような思い出もあるなと、そんなひとり暮らしのエピソードを書いてみました。

ささみさんの記事はこちら。冬の今だからこそよく伝わってくる、すてきなエッセイでした。合わせてどうぞ!



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