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No.23 江戸かたぎ 2024年 7月

「江戸っ子の基本は三無い。 持たない、出世しない、悩まない。」 杉浦日向子(エッセイスト、江戸研究家 1958~2005) 先日、深川江戸資料館を訪ね、この言葉を実感した。 長屋の1軒の広さは、いわゆる9尺x2間か3間の3坪か4.5坪。 「火事と喧嘩は江戸の華」や「宵越しの銭はもたねぇ」の言葉どおり、いざとなったら風呂敷一つ、多くても大八車で積み出せる程度の所帯であった。身軽な江戸の人々を支えていたのは、今風に言えば、見事な共生社会であり、循環型社会のインフラであった。江戸の上下水道の総延長は当時世界最長の150キロにも上り、稀有な清潔都市であった。 日々の暮らしから出るし尿や灰は、近隣の農家の田畑の土作りや野菜栽培向けに回収、有効活用され、茶碗の欠けから下駄の歯まで割れたり欠けたりしたものを、修理し再生する技術や仕事が普通に存在し、循環型社会のために必要な「Reduce(ゴミ削減)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)」の「3R」が、当たり前のように江戸時代には実践されていたのである。 

 また、江戸は18世紀において人口100万人を超える世界最大の都市であったと同時に、世界でも稀にみる緑豊かな庭園都市であり、園芸都市でもあった。 その実態は、全国300弱の諸大名が上屋敷・中屋敷・下屋敷をつくり、屋敷とともに造られた庭園はその数およそ1000。 それらの庭園・植栽を維持するための植木職人が江戸の北の郊外(駒込・巣鴨・染井等)に集まり一大植木産業を形成するという文化が花開いた都であった。 更に、そこから端を発した園芸趣味が大名のみならず下級武士・庶民へも広がり、長屋の軒先に朝顔や菊の鉢が並び、定期的に朝顔市、菊の市、ほおずき市等が立つという歴史が今に至っている。我々日本人の祖先が大事にしてきた自然との共生やSDGsの実践が江戸時代にはあったのである。 江戸のもう一つの魅力は甍(いらか)の波である。 大名屋敷や神社仏閣が軒を並べ、屋根が連なる壮観さは、今もしそれらが現存していると想像したら、荘厳なものであったろう。  

 江戸の終わりに日本を訪れた英国人写真家フェリーチェ・ベアト(1832~1909)が愛宕山の上から東側を撮影したパノラマ写真が残っている。 撮影時期は文久3年(1863)。 眼下には大名屋敷や旗本屋敷が所狭しと建ち並び、遠くには江戸前の海、左奥には築地本願寺の大屋根も写り、ワンダーランド江戸の往時を今も偲べるのである。

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