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点数教育!?勉強するなら点数に絶対的にこだわるべき理由!

こんにちは!熊本の教育&勉強攻略アドバイザー、ブレイクスルー・アカデミー代表の安東正治です!


今回のテーマは「点数」です。勉強するなら絶対的に点数を取ることにこだわらなければなりません。点数至上主義です!


しかし、点数至上主義と勉強至上主義は全く異なる考え方なので注意して下さい。私が言いたいのは「勉強しなさい!」ではありません。あくまでも「あなたが勉強すると言うならば、その場合は絶対に点数にこだわりなさい!」ということです。


なお今回の内容は、私の運営する熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミーのメインサイトで公開している記事『勉強するなら絶対点数にこだわりなさい|熊本の学習塾ブレイクスルー・アカデミー』の内容に情報を追加する形で書き上げたものとなります。是非こちらも併せてご覧下さい。


こんな前提で勉強していませんか?

点数絶対主義と勉強絶対主義を分けて考えられる理由は、多くの方が勉強に関する「前提」を持っているからです。


あなたももしかしたら勉強するのは当たり前だと思われているかも知れませんが、その「勉強するのが当たり前」という前提がそもそも間違っていませんか?ということ。ここにメスを入れるのって結構勇気が要ります。


勉強するのが当たり前になっているのは、勉強することが習慣化されているからに他なりません。国として教育制度を敷き、小学生になったら学校に通うようになっている。中学生になったら中学校に、高校生になったらほとんどの方が高校に通うように、日本としてはなっているわけです。そうやって日本が1872年から全国に敷いた教育制度によって同じことを148年間続けてきたことで、これが当たり前だという感覚にならされている、というのが実際のところなのです。


この「当たり前」という前提の裏にあるものが、「勉強は大切なものだから」というのであれば、それは大切にしなければなりません。でもそうではありませんよね。「人間関係を良好に保つ第一歩はまず挨拶から」「何かをしてもらったら『ありがとう』、何かよくないことを相手にしまったと気付いたら『ごめんなさい』と言いましょう」ほど、「勉強は大事」は自明の理ではないでしょう。挨拶とかお礼とかは当たり前でイイですが、勉強が当たり前というのは思想ではなく制度ゆえの習慣に過ぎないわけです。


この”問題”の根深さを表すのが「どうして勉強しないといけないの?」という子どもたちの疑問。こんな疑問が子どもたちから出てしまうこと自体が、勉強が当たり前になっているにも関わらず、その前提について無自覚的である証拠なのです。思想が前提ならこんな疑問そもそも浮かびません。大事だからやっているなら問題ない。でもそうではなく制度としてやらされているだけのものだからこそ「あれ?なんでこんなことしないといけないんだろう?」と疑問が湧く。


まず気付いてほしいこと。それは


「勉強は、しなければならないものではない!」


ということです。


勉強するなら点数は絶対取れ!の理由

勉強が”しなければならないもの”ではないという前提に立つと、勉強をするかしないかを選択できるという本来のあなたの状況に立ち戻ることができます。そうなんです。勉強はしないといけないのではなく、あなたが権利としてそれを選ぶこともできるし、勉強しないことを選ぶことも当然できるということです!


これ、結構複雑なんですが、勉強と学びの関係と同様に、勉強と教育という関係についても私たちは曖昧な理解しか持たされていません。勉強が絶対的なものであるとか、学校教育=教育みたいな感覚に慣らされているのです。


実際には勉強は絶対的なものではなく、あくまでもあなたの意思で「じゃあ勉強をやります」「じゃあ私は勉強をやりません」と選んでイイはずのものなので、勉強するということは、あなたがそれを選んだということになります。この感覚にまずシフトしていただく必要があります。今回の記事はここがネックです。


すると前提が変わったことで話全体の流れがガラッと変わります。勉強絶対主義だったものが、勉強は絶対ではなく選択の結果だという話になったわけですから、「勉強をするならば」という振りが重要だったことがお分かりいただけるはずです。


勉強は選択できる。その上であえて勉強をすると選択する、決めるならば、勉強に求められるルールに従ってプレーするしかありません。そして勉強のルールは点数を取って下さいというもの。勉強の成果は、テストもさることながら、受験という機会で測られることになる。そこで合格するには点数を取るしかありません。


これがもし今後、面接や推薦、小論文というテストレスな方法で合否が確定する仕組みに変わるなら話が別ですが、現時点では入試を受けて必要以上の点数を取ることが合否決定の基準というルールがメインですから、それに則って考えるなら、点数を取るしか道はないわけです。これで


「いや、点数なんてどうでもイイです!勉強することそれ自体が将来にとって大切なことなんです!」


という価値観で勉強されるのは自由。これは思想の自由ですから何も言えません。ただ、そういう思想で勉強しているのに「頑張ってるのに成果が出ません」とか言うのはおかしいということです。そりゃそうでしょってことです。勉強は点数を取れてなんぼのルールだと分かっていながらそれを無視してプレーするという発想であれば、頑張っても伸びない可能性が高いですよね、ということです。


頑張ることに価値があると思うのか、勉強するなら点数絶対主義をあえて受け入れるのが良いと考えるのか。ただ「頑張ることに価値がある」と思うなら、それが勉強である必要はない。もっと頑張りがそのまま評価につながる分野で取り組むべきでしょう。でも勉強は点数で評価される世界だから、頑張りは無視です。結果が全て。それでも選ぶのかどうかという話。だから勉強絶対主義ではないけれど、勉強するなら点数絶対主義です、という言い回しになります。


学校教育は実は○○!?教育とはそもそも何なのか!?

じゃあ、もっと踏み込んで考えた時に、そんな点数を取れっていうのが日本の教育なのか!?という話になってきます。学校が勉強を半強制的にさせる→勉強は点数絶対主義だと言う→であれば学校の教育は点数絶対主義ではないか!ということです。「A→BかつB→CならばA→C」というアリストテレスの三段論法ですね。


確かに学校教育は国の制度として同年代の子どもたちに平等に開かれた機会です。それは間違いない。問題はそれを「学校教育=教育」と誤解させている点にあります。


教育という言葉の本来の意味は「無理やりに何かを教え込む」です。なぜ「無理やり」かと言うと、「教」という漢字がもともと「鞭を打って相手に言うことを聞かせる人」の姿からできた文字だからです。


では洗脳と教育はどう違うか、というのも気になると思いますが、これは


・洗脳→教える側の都合に合わせて相手を変える行為

・教育→相手のための行為


ということになっています。この点でいくと、じゃあ学校教育はどちらに類するのかなんとなく分かりますよね。そう、「洗脳」なんです。


洗脳という言葉は1995年3月20日に東京で起きた地下鉄サリン事件の時に有名になったものです。当時オウム真理教の麻原彰晃に洗脳された信者がこういった事件に関与していた事がニュースで連日取り上げられたため、洗脳という言葉が悪い印象と共に世間に浸透していきました。中には1998年にX JAPAN解散のきっかけとなったTOSHIさんの洗脳騒動で記憶された方もいらっしゃるかも知れません。


このように洗脳というのは、当人に気付かれることなく、当人以外の利益のためにその人の心理や思考を縛る行為です。これを受け入れるならば、果たして学校教育がしていることは一体誰にメリットがあることでしょうか?学生本人にあるでしょうか?違いますよね。そのメリットを享受するのはあくまでも国です。つまり学校教育は「当人に気付かれることなく、当人以外の利益のためにその人の心理や思考を縛る行為」を行っているわけですから、それをどんなに学校「教育」と呼んだところで、やっていることは「洗脳」なのです。


それに、学校教育はあくまでも数ある教育手法の1つに過ぎませんので、そもそもが学校教育=教育ではありません。教育⊃学校教育(A⊃B:AはBを含む)の関係です。


そう考えると、教育基本法の第五条に記載されている文言の解釈が明確になりますよね。

第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

ここで言うところの普通教育は「教育」のこと。義務教育とはこの法律に基づいて義務として与えられるべき教育の呼称。どこにも普通教育=学校教育、義務教育=学校教育という文言はありません。


ということは、教育として行われるものは学校教育だけに限らないということになります。つまり義務教育という言葉はあっても、それは別に保護者に「子どもを学校に行かせる義務があるんだ」と言っているわけではないということ。そして国や地方公共団体が提供する教育の場の1つが学校という空間、環境であって、教育を受けられる場は本当は他にもたくさん、それこそ無数にあるのです。あとはそれを子どもたち自身が自らの意思で選び取っていけるかどうか。その後押し、手助けを保護者がちゃんとできるかどうか、するかどうかなんです。


その数ある環境の中から学校を選ぶと言うならば、その学校制度や受験制度が築いたルールに従って努力をせねばならないし、いまは日本国民のほとんどがその学校という環境で過ごして大人になっていくという現実があるからこそ誤解してしまうのですが、別に義務教育とは「学校に行くことが絶対である」という意味でもないわけですから、本当に学校に行くことが”当たり前”なのかどうか、勉強することが”当たり前”なのかどうか、それは本当に自分の意思で選んだものなのかどうかを考えてみられると、全く新しい視界が広がっていくのではないでしょうか。


ということで、今回は点数教育、点数絶対主義、学校に行って勉強するなら点数は絶対であると言える理由についてお話ししてみました。何かの参考になれば幸いです。また次回をお楽しみに^ ^



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