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僕のアート感覚について

こんにちは、LRです。ちょっと備忘録。

さっき、アーティストというか芸術家として”作品”を作りました。

これです。

「ただのツイートじゃん」と思うかもしれませんが、僕にとってこれはれっきとしたアート作品。その意味合いとか感覚について、一応メモしておこうと思いこのnoteを書きます。

ここでいう”アート”は、現代アートのようなコンセプチュアルで資本主義的なバーチャルバリューが付加されたものでもなければ、絵や音楽のような文化的な土壌がありそこに価値が積み上がっている類のものでもありません。

じゃあ「具体的にどの辺がアートなの?」というところですが、一つの画像に様々な意味を複層的に持たせた作品という視点でのアートです。投資が絡まなければ考え方のプロセスは現代アート寄りではあるかもしれません。

もっかいのせます。

ここに含まれている意味について、内側から外側へと説明していきます。

1.「人に読まれることを意識すると文章は死ぬ気がする」というセリフ

まずこのセリフは、僕が最も素敵だと思う文章の形を表したものです。

文章(言語)は大まかに分けて

・コミュニケーション(会話やブログなど)
・論理(論文など)
・芸術(詩など)
・内省(脳内記号、コンピューターで言うところの二進数)

がありますが、僕が最も美しく輝きがあると感じるのは、4番目の内省言語に限りなく近づいた文章です。

『人に読まれることを意識する』と、文章は途端に説明的になったり、共感を求めたりし始めます。

そうなると文章は自分だけのものではなく、自分と社会を掛け算したコミュニケーション言語になってしまい、その人本来が持つ輝きや本当に表現したいものから離れていってしまいます。

生まれたての言葉ではなく誰かに向けた言葉になってしまい、ピュアな純粋性や真実味が失われがちになってしまうのです。どちらが美しいかと言えば、僕は生まれたての言葉の方が美しいしずっと生きていると感じます。

なので「人に読まれることを意識すると文章は死ぬ気がする」という発言をしました。

2.セリフを囲う枠のデザイン

セリフを囲う枠のデザインはnoteのつぶやき機能によるものですが、薄いグレーでセリフ箱の形をしていて、いわゆる”ポップ”なデザインです。

「人に読まれることを意識すると文章は死ぬ気がする」というセリフは(僕の感性では)真実味がありソリッドな発言だと思いますが、そのソリッドなセリフをポップなデザインで囲っている。ここに、ある種のやるせなさやバカバカしさ、嘲笑のようなものを感じます。

どういうことか。

例えば現代社会では、何らかの成功者というのは持てはやされます。

・お金や地位がある
・コミュニケーションが上手
・モテる
・プロスポーツ選手である
・インフルエンサーである

まあなんでも良いのですが、現代日本は一応資本主義社会ですから、社会全体に成功者への憧れは潜在的にあるわけです。

逆に「貧乏でも無価値でもボッチでもいいから、つつましく隠れて生きていこう。そっちのが平穏で幸せだよ。」という隠遁思想的な主張は、支持者はいるでしょうが少数派です。

成功者になりたいとは言わないまでも、なんだかんだでそこそこにお金があって人間関係も上手くいく人生を望む人が多数派なのです。

でも「どちらが”ソリッド”な意見か」と言われれば「貧乏でも無価値でもボッチでもいいから、つつましく隠れて生きていこう。そっちのが平穏で幸せだよ。」の方です。

なぜなら成功者への憧れは成功と失敗という社会的定義に則ったものであり、隠遁思想はより自己主張的で自分発信の定義に則った生き方だからです。社会のレールに乗るか、自分を貫くかということです。

ここで『セリフを囲う枠のデザイン』に戻ると、

「人に読まれることを意識すると文章は死ぬ気がする」というソリッドな意見を、ポップ(大衆的・社会的)なデザインが囲っている事実があります。

ソリッドな意見に対して大衆が

・「あいつバカだなー」と嘲笑う
・遠巻きに眺めている
・動物園のように面白がって鑑賞している

といった表象を、このセリフと枠に観ることが出来ます。

一方ソリッドな意見を発している人間は、そんな周りの反応を見て「社会に自分の声がとどかない」「やるせない」「とても孤独だ」という感情を抱きます。

その意見の対比やそれぞれ立場の感情を、セリフと枠のデザインから読み取ることが出来ます。

3.投稿日時と時間(03:59)

一般的に社会が動き出す直前である日曜深夜〜月曜早朝のこの時間に、社会に相手されない意見を発している人間の孤独さやむなしさを表しています。

4.つぶやき画像を貼っているツイート部分(外枠)

この”作品”はまず『noteのつぶやき画像』をスクリーンショットし、そのSSを画像として貼りツイートし、さらにSSを撮ったものです。

まずnoteでつぶやく→SSを撮る→画像ツイートする→さらにSSを撮り作品にする(入れ子)

あえてそのような手順を踏んだ理由は、1〜3まで書いてきた様々な意味合いを含んだつぶやき画像を『冷めた視点で無言で見つめる目』を加えたかったからです。

作品でもなんでもそうですが、観測者がいなければ存在し得ません。

もちろん発言している自分を自分で観測すればそこで”作品”としては自己完結していますが、あくまで自己完結です。真っ暗な部屋で喋り続けているのと同じです。

だから、つぶやき画像をツイートしSSを撮るという手順を踏むことで『観測者』を追加しました。

そこには自分という一人の観測者の目を追加するだけではなく、こんな発言を真夜中にしてしまっている自分自身を無言で見つめる時に生まれる、様々な感情も付加しています。

それはまるで、真っ暗な部屋に閉じこもって自問自答する様子を切り取った一枚の写真のようです。

このような多数の意味合いを複層的に入れ込んだものだからこそ、この画像はれっきとした”作品”であり”アート”なのです。

ただし

この作品がアートとして人々に認められない理由

も明確にあります。

それは『なんのレールにも乗っていないから』です。

レールとは、最初に書いたような

・現代アートのレール(コンセプチュアル等)
・絵や音楽技術のレール(絵画技法や演奏法等)
・ポップな共感のレール(小説やアニメ漫画等)

など、今まで人々が築いてきた”文化的土壌”と言うべきものです。

芸術に限らず科学でもなんでもそうですが、世の中で生き残るほぼ100%のものは何らかの土壌(レール)に乗っています。

例えば、世界を進歩させる立派な発明をした科学者は『発明家』として社会に認められます。その人は過去の論文を元に発明を進歩させ、新たな発明を生み出したから。つまり先代の科学者たちが積み上げた”科学のレール”に乗っているからです。

でも、よく分からないピョンピョン跳ねるバネをくっつけた靴を作って「これで人類の移動速度が上がるぞ!これは画期的な発明だ!」と言った人がいたところで、その靴は発明として認められないし、その人も発明家として認められません。科学のレールに乗っていないからですね。

ただし、その自称発明家は『おもしろ発明家』としてはウケて人気者になれるかもしれません。なぜかというと”エンタメのレール”に乗れるからです。「なんか役立たない発明してる変な人がいるけど、面白いんだよ!」って。

ここで

これの話に戻りますが、この”作品”はなんのレールにも乗っていません。

もしかしたら『現代詩』あたりのレールには微妙に乗れるかもしれませんが、その可能性はすごく薄いですし、乗れたとしても現代詩っぽい謎のレールにしか乗れないでしょう。めちゃくちゃローカル線です。

だから今のままでは、例えばこの作品をアクリルブロックにして販売しても誰も買わないだろうし、誰もこの作品にチップを支払おうとはしません。

ただし一応、これを”人々に認められるアート作品”に昇華させる方法は無くはありません。その方法とは、

・僕がめちゃくちゃ有名になる
・お金持ちになって影響力を持つ
・新しいアートジャンルとして確立する

というものです。つまり社会的・資本主義的なルールに則って、無理矢理に社会のレールを作り上げてしまうということです。

では最初の発言に戻ってみましょう。

「人に読まれることを意識すると文章は死ぬ気がする」

これは社会からの隔絶を望む、隠遁思想が極まった人間の発言です。

つまり『僕の思うさいきょうの文章アート』を創るためには、他者の存在は無視してボッチを極めろと考えている人間だということです。

そんな個人主義的な人間に、無理矢理に”社会的レール”を敷くことが出来るでしょうか?

むりですね。

おわりです。ありがとうございました。LRでした。

いつも応援ありがとうございます!