若松英輔『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房、2018年)を読んで。

 桜の花が咲き始めると必ず思い出す言葉がある。

「何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文ば、チッソの方々に、書いてくださいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子の代わりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に」

若松英輔著『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房、2018年)、71頁

これは石牟礼道子さんに語られた言葉である。この言葉に初めて出会ったのはおそらく若松英輔氏の『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』においてであった。そしてこの書名はもとはと言えば石牟礼さんの「花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり」の一節を含む「花を奉る」という歌に拠る。
 若松氏の著作を通して出会った石牟礼道子さんの言葉は重層的に私の中で響き渡る。それは花というコトバとの出会いとも呼ぶべきもので、『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』、『岡倉天心『茶の本』を読む』、そして『常世の花 石牟礼道子』を往還する中で深みを帯びていく。私の中で確かに育むべき言葉の種が与えられ、それが根を下ろしていく過程なのであろう。理知的な言葉でもって説明することを拒む、「言葉との出会い」。それが石牟礼道子さんの「花を奉る」という歌との出会いなのである。
 あとがきに書かれているように、本書は石牟礼道子さんが亡くなった時に著者がさまざまな媒体に書き記した追悼文と対談とを集めた本である。もちろん著者が断っているように石牟礼道子論というものではない。そこに記されているのは著者の石牟礼道子という書き手との邂逅の軌跡である。一見短文の寄せ集めに感じてしまう読者もいるかもしれないが、繰り返し読むとそうでないことに気が付くであろう。注意深く叙述の重複が避けられながらも、石牟礼道子という希代の書き手の最期の時を刻んだ本なのである。
 『苦海浄土』という書物の誕生を私たちがどう受け止めるべきかを問うこの小さな本は、石牟礼道子が書き手として何に生涯を捧げたのかを明らかにしている。『苦海浄土』は壮絶な本である。しかしそれを託した人々の涙の涸れるような悲哀を受け止めた石牟礼さんの生涯もまた壮絶であった。石牟礼さんが経なければならなかった出来事を通して、私たちは本当の意味で彼女の言葉を受け止めることができるのであろう。著者の切実な関心から生まれた一群の文章は、練り上げられた論とは違った形で石牟礼さんの姿を浮き彫りにする。それは美醜、善悪を超えた不二一元論の境涯なのである。ただ彼女の想いを引き受け、それとともに生きることを、そのコトバは促しているのである。

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