山本芳久『愛の思想史』(NHK出版、2022年)を読んで。

 本書は類書のないキリスト教思想入門である。多くの入門書や概説書はある決まった枠組みを読者に提示することが多いのだが、本書はむしろどうしてそういう発想に至るのかという、その一歩手前の部分から説き起こす。その理由は本書が同名のラジオ番組をもとに書き下ろされたものだからであろう。噛んで含めるような語り口によってその惟一回の好機を掬い取ろうとする本書は、ともすれば難しく感じてしまうテクスト群を、実際に読み解くことを通して生き生きと読者に提示してくれる。
 本書は著者の『キリスト教の核心をよむ』がそうであるように、キリスト教に興味を抱くすべての人に勧めたい一冊である。入門書であると基本的な事柄に終始するのかといえばそうではなく、むしろ研究書などにおいては扱われることのない深さでテクストが読まれていくことに特徴があると言えよう。著者長年の読解に基づく引用テクストの選びそのものが本書をたぐいまれなものにしている。
 キリスト教は愛の思想であるとはよく言われるが、その内実は自己犠牲的なものであるかのように捉えられることが多いのが現実である。しかし本書はその発想がいかに一面的であり、むしろ自己否定的なものは本来キリスト教的ではないことを明らかにする。本書において詳しくは説明されていないが、このことはむしろ奉献や敬虔に関わるものであり、著者の『トマス・アクィナス 理性と神秘』により詳しい記述を見出すことができる。
 本書を特徴づけるのは教皇ベネディクト16世の回勅『神の愛』の読解にあろう。この一書の基本的要素となる愛の言語をそれぞれの思想家のコンテクストにおいて明らかにしつつ、『神の愛』において説かれる根本問題をニーグレンの『アガペーとエロース』との対比を通して明らかにしていく。そこまでの叙述、すなわちプラトンのエロース、アリストテレスのフィリア、そして『神の愛』の読解を起点としたアウグスティヌスとトマス・アクィナスのカリタスの議論が絶妙な仕方でお互いを否定することなく有機的な全体を成している。
 ここまでの内容はいくらか著者の別の書と重なる議論と思う人もいるかも知れない。しかし本書では先に言及した『キリスト教の核心をよむ』で取り出される旧約聖書と新約聖書における神理解がより詳しく説明されているのもまた印象的である。聞き手に対して語られた言葉であるからこその平明さは、単に入門であるだけでなく専門的な研究を紐解いて後に見えてくる地平へと読者を立たせてくれるものである。キリスト教の理解を深めたいすべての読者に勧めたい一冊である。


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