田中美知太郎『哲学初歩』(岩波現代文庫、2007年)を読んで。

 本書は評者が最初に読んだ哲学入門である。哲学入門にはいろいろな種類があると思うが、本書は地に足の着いた問いかけを積み重ねていくことで読者とともに歩む哲学入門である。本書との出会いは偶然といってもよく、大学一年生の時に大学の生協で平積みされていたのである。哲学の勉強を始めてすぐに田中美知太郎訳の『ソクラテスの弁明』を読み、「吟味のない生は生きるに値しない」という一節との出会いがそれからの自分を決したものであったことに気が付かされる。本書もまた時を同じくして哲学との出会いを方向付けた一冊である。
 本書はまず哲学書を読むこと自体の意味を問いかけ、哲学書を様々な言語で読むことを勧める。自分の母語だけで考えることの危険性に注意を促すのである。哲学を学ぶとはいかに独善性から離れて知を追い求めるかにあることをまず伝えてくれるのである。本書はそれ自体が要約を拒む哲学の根本問題が凝縮された一冊なのであるが、読み進めて気付くことは議論の進め方が非常に周到に認識論、倫理学、形而上学の主題を掘り下げて提示しており、なおかつ絶妙な引用を通していつの間にか読者が哲学書の古典と呼ばれるテクストの中へと案内されていることである。
 本書で積み重ねられていく問いかけは、哲学とは何かから始まり、哲学の実用性、死の練習、倫理の超越性、幸福な生としての観想、そして形而上学へと議論が進んでいき、最終的に無知の自覚へと及ぶ。その議論の道行きの中で引用される古典は、プラトンの『国家』、アリストテレスの『形而上学』、そしてカントの『純粋理性批判』や『実践理性批判』といった著作の有名な箇所にとどまらず、上述の著作の意外な箇所やプラトンの『クレイトポン』などにも及ぶ。それぞれの古典が蔵する生き生きとした議論を再現するような仕方でその主題を掬い上げるように引用されていくのである。
 本書の解説で広川氏が言及するように本書自体がプロトレプティコスすなわち「哲学の勧め」を実践している書物にほかならないのであるが、同時に気が付かされることは本書を読み進めることがギリシア的パイデイアの実践であることである。読者に対話的思考のディアレクティケーのあるべき姿を提示し、哲学することを促していると言える。プロトレプティコスがフロネーシス論であったように、本書もまた単なる知識でもなく、人間に及びもつかない神的知でもなく、一人ひとりが「よく生きる」ことを呼びかけるフロネーシス探求の書であることに気が付かされる。ひとは哲学を学ぶことはできず、哲学することを学べるのみだとカントは言う。一人ひとりが哲学することへと呼びかける本書は、評者にとって繰り返し立ち返るべき原点の書である。

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