三嶋輝夫『汝自身を知れ 古代ギリシアの知恵と人間理解』(NHKライブラリー、2005年)を読んで。

 古代ギリシアは人を魅了して止まない。しかしその秘密はどこにあるのだろうか。その汲めども尽きぬ知恵の所在を明かしてくれる一冊の本、それが本書『汝自身を知れ』である。哲学はソクラテスの死に始まる。そのソクラテスを知恵の探求へと導いた、あまりにも有名なデルフォイの神託。あるいはギリシア神話におけるオイディプスやメデイアの物語。ギリシア哲学やギリシア神話、ギリシア悲劇と古代ギリシアには豊かな文化的遺産がある。多くの概説書ではあらすじが語られ、その愉しみ自体は読者自身がさまざまな形でじかに触れることを通して得られるものなのであろう。しかし概説で説かれるあらすじの理解と実際に触れてみるところまでには大きな隔たりがあり、なかなか古代ギリシアのわくわくした部分に触れられる機会というのは少ないのではないだろうか。本書はそういう読者のための本である。
 本書は古代ギリシアを特徴づける物語の一つひとつを実際に紐解きながら案内することを通して古代ギリシア文化の豊かさを明らかにしてくれる。文化的な特徴の概論というよりも、実際に多くのテクストに触れて親しむことを通してギリシア文化の総体を読者に提示してくれているのである。中でも印象的なのは王道たるプラトンの描くソクラテス像のみならず、その背景にあるギリシア神話の物語や、あるいはその周辺にあるクセノフォンのソクラテス像を実に生き生きと描き出していることである。本書の特徴は、他の概説書やそれぞれの文章の解説だと細かな点に目が行きがちであるが、実に生き生きとした叙述の積み重ねを通して読者に厚みのある古代ギリシア世界が提示されることにある。著者の翻訳による『ソクラテスの弁明』では簡単にしか触れられていないデルフォイの神託に関する、より詳しい記述はまさに目から鱗であった。もともとラジオの語りであったからこその切り口は、ともすれば学術的な論文などでは触れ得ないギリシア文化の豊かさに触れさせてくれるのである。本書を読み進めると、気が付けばプラトンの主要著作やアリストテレスの徳論へといつの間にかに案内されるという、何とも心憎い仕掛けがなされているのである。著者の取り上げるテクストの読み解きを通して、それこそ古代ギリシア人の知恵が決して古風なものではなく、変わることのない人間の姿を照らす現代の思想であることを感じさせられることであろう。古代ギリシアに興味を持つすべての人に薦めたい一冊である。

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