山根道公『遠藤周作と井上洋治』(日本キリスト教団出版局、2019年)を読んで。

 井上洋治の主著は『日本とイエスの顔』と『余白の旅』である。主著とは若松英輔氏が井筒俊彦論で指摘しているように、その本を読めばその人を読み誤ることのないであろう本のことである。若松氏の『神秘の夜の旅』で遠藤周作が越知保夫との出会いの感動を井上洋治に語る場面がある。そのことが実際に印象的に書かれているのが井上洋治の著作『余白の旅』にほかならない。とはいえ『余白の旅』はエッセイ風の書き出しから始まる本で、戸惑いを覚える読者もいるかもしれない。井上洋治その人については近年刊行された著作集が徐々に明らかにしてきた。印象的な著書の数々には井上洋治の様々な出会いがちりばめられている。スコラ哲学について、リジューのテレーズを始めとしたカルメルの霊性についてなど。だがその経緯は生前から近しく交わった人やその著作群に既に親しんでいた人々以外にはヴェールに包まれていた。本書『遠藤周作と井上洋治』はそのような読者のための本である。井上洋治論の祖型を含みながらも本書は遠藤周作との生涯にわたる問いの共有を通して何を目指していたのかを鮮やかに描き出す、両者にとっての文化内開花を闡明する一冊と言える。
 本書の特徴は評伝という形を取りながら遠藤周作と井上洋治の二人の姿を並行して描き出していることにある。遠藤周作が生涯にわたって問い続けてきた「日本的キリスト教」とはいかなるものであるのかを井上洋治との交流の内に描き出すのであるが、既に示唆したように本書はむしろ井上洋治論である。評者にとって印象的だったのは二人がどのような経緯でフランス留学に至ったのかということである。中でも後の遠藤周作の仕事からすると自らの仕事を傍系と見なすような筆致からは想像できないほど日本のカトリシズムの中心的な場所にいたことである。遠藤周作が戦後初の留学生として送り出されたのはそれまでの様々な論考を評価されてのことであったというのである。そして井上洋治にとってはカトリシズムとの出会いが身を引き裂くような経験の積み重ねによってなされたものであることが伝わってくるのだが、その痛みを汲みながらも井上洋治の確信が何であったのかを本書は生き生きと描き出すのである。
 本書は遠藤周作と井上洋治の主著が如何なる意味を持つのかを明らかにし、読者に両者の著作を読み解くための手掛かりを与えてくれる評伝である。遠藤周作がカトリシズムと出会っていく中で見出した問いを『白い人・黄色い人』や『沈黙』へと結実させ、その深化を『深い河』へと遺言のように残したのと並ぶかのように、井上洋治は『日本とイエスの顔』によって見出したイエスの姿を『余白の旅』において深めているのである。二人の著作が如何なる意味を持ち、読者に何を訴えかけるものなのかを描き出す本書は、最良の井上洋治入門であり、その道程で明らかにされる両者の根本問題は本書を類まれな遠藤周作論にしている。日本におけるキリスト教の意味を問う人にはぜひ手に取ってほしい一冊である。


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