森分大輔『ハンナ・アーレント 屹立する思考の全貌』(ちくま新書、2019年)を読んで。

 近年注目されているアーレントには様々な入門書がある。その生涯を知るには矢野久美子氏の『ハンナ・アーレント』(中公新書)がまずあり、そしてその主著の精緻な読解については川崎修氏の『ハンナ・アレント』(講談社学術文庫)が手堅い案内となるであろう。ほかにも多数のアーレント入門がある中で、本書はアーレントの著作を紐解こうとする人にとってそれら二著の中間に位置付けられる一冊である。
 アーレントの著作を読み始めると、彼女の迂遠な文体が一体何を言わんとしているのかが掴みがたいという経験を読者はしばしばすることと思う。『全体主義の起源』に然り、『エルサレムのアイヒマン』に然り、である。よく知られたこれらの著書を直接に読み進めようとする読者はともすれば端々に引用される哲学者の言葉や彼女の鋭利な分析が一体何を意図して記されているのかがわからないという経験をするかもしれない。本書はそのような読者のための本である。
 本書の特徴は一つ一つの主著の主張をその文脈とともに取り出すことにある。川崎氏の精緻な読解に比べ、本書は大づかみにアーレントの主張を読者に提示することに力点が置かれている。アーレントの生涯にわたる思考をいわば一冊の書物を読み通すように総覧させてくれるのである。生涯の出来事に焦点を当てたのが矢野久美子氏の著書であるとすれば、本書はそれぞれの主著が書かれるに至る経緯とその基本的な主張を取り出すものなのである。
 アーレントの主著の一つとされる『全体主義の起源』を読み始めるとなぜこの話がこの文脈で出てくるのかと唐突に感じることが多々ある。本書はそうした読者が抱き得る疑問の一つひとつに解答を与えてくれ、読者自らがアーレントのテクストに取り組む手掛かりを与えてくれる。具体的な例を挙げれば、反ユダヤ主義とカトリックの関わりであったりとか、エリートという言葉についてである。また、『全体主義の起源』で取り上げられた根源悪の省察がどのように『エルサレムのアイヒマン』の悪の凡庸さへと関わっていくのか、そしてその相互の関わりが本書全体の叙述を通して明らかにされる。本書を読み進めていくうちに彼女がどのような意図のもとに哲学史に言及しているのか、そして彼女がどのような意味合いを込めて一つ一つの言葉を精査しているのかが確かめられるのである。本書を読み進めることでアーレント読解への大きな足掛かりが得られるのである。
 本書は大著たる主著の前後に書かれた論考を詳細に引いていることにも特色がある。大きな枠組みではとらえきれない詳細な議論を小論によって肉付けしており、その後アーレントの著作を紐解こうとする読者にとってのハードルを確実に下げてくれる。生き生きとした読解を通して取り出される主張はアーレントの生涯にわたる思考の全体像を浮き彫りにするものであり、本書はまた読者をアーレント研究の精華へとも導いてくれるものである。アーレントの著作に向き合おうとする読者に薦めたい一冊である。

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